出家ということ

いろんなことがあり、そのせいか、近頃はやたら静かだ。
怒涛のような日々を過ごしたせいで、疲れているのかもしれないし、いよいよ出家への道を進もうとしているのかもしれない(笑)


時々、瀬戸内寂聴さんのことを思う。
若いころ彼女の小説を読んで共感することが多く、なぜ出家されたのか不思議に思っていた。

あるとき、台所でねぎを切っていて、「あ。」と思った。
腑に落ちたのだ。
「なるほど、だから寂聴さんは出家されたのだ。」

自分にそういう心境が訪れるかどうかはわからない。
しかし、「ありうる。」と思った。

頭を丸めるかどうかは別として、自分自身を解き放つ勇気を持つことができる可能性。わたくしもそれを持っていると知った。

「知る」という言葉、「気づきがある」と似た意味かもしれない。
しかし「気づき」という言葉が流行語のように使われる現在、ここで「気づきがあった」と書きたくないというあたりが、わたくしのわたくしたる所以であり、まだまだ修行が足りないという情けない状況を表しているともいえる。

「気づき」とか「癒し」とか、本来は深遠な意味を持つこれらの言葉が流行語のように浅く使われる昨今、そこにこだわらずさらりと使えるようになったらいいなと思う。

実際、わたくしの尊敬する方々は、これらの言葉を見事に使いこなしておられる。さらりと自然に、しかもその奥深さをそのままに。

わたくしも、いつか、その場所にたどり着けたらいいなと思う。