2012年12月満月「ゆるく、ゆるーく」

* 満月情報
12月28日19時22分、巨蟹宮7度6分の満月です。
一年の終わりの満月がこれですか!というくらい、派手な星回りを伴っています。
相変わらず双児宮木星を根にした天蝎宮土星と磨羯宮冥王星のヨードがあり、この冥王星と太陽がほぼ重なっているため、太陽もこのヨードに取り込まれています。
さらにこの太陽と、真向かいの巨蟹宮の満月に対してスクエアを作っているのが白羊宮の天王星です。太陽、月、天王星T-スクエアです。もちろん冥王星も取り込まれています。
これだけみれば、何かにぐっと押さえ込まれるような、強力なプレッシャーがかかりそうに思われます。しかしながらこの日の満月は、天蝎宮土星とトライン、双児宮木星セミセクスタイルというように、やさしくしっかりと包み込むような角度も持っています。そして何といっても、月というのは巨蟹宮の支配星です。一年中で最も威力の高い満月になることと思われます。やさしく、強く、あなたの夢をしっかりと支えながら、その夢の練り直し、たたき上げを要求してくるような、厳しい満月にもなりそうです。
さらに、T-スクエアを作っている天王星、ヨードを作っている木星が、一方では宝瓶宮の火星とともにミニトラインを作っています。さらにこの火星と天王星の間に双魚宮天王星が入り、情熱と革命の星を、夢で結んでいくようです。
この火星に人馬宮の水星がセミクインタイル、同じく人馬宮の金星がセミスクエアと、周囲の人との関係にささやかな変化とつながりが起こりそうな配置が見られます。
ざっと角度だけ見てまいりましたが、そのほかにこの満月の星回りにはミューチャルレセプションが多く見られます。
双児宮木星人馬宮の水星。
宝瓶宮の火星と白羊宮の天王星
磨羯宮の冥王星天蝎宮土星
天蝎宮土星宝瓶宮の火星。
四つもあります。
この支配星とサインが入れ替えっこになっている状態をミューチャルレセプションというわけですが、同じ星が登場するのは、火星はかつて天蝎宮の支配星でもありましたし、土星はかつて宝瓶宮の支配星でもあったからです。
これらは正確な角度を作っていなくても、アスペクトが形成されているのと同様な星の力が発揮されるといわれます。
これら四つの組み合わせを見てみると、その威力に圧倒されそうなほど、強力で重い感じがします。
この満月前後には、まず情熱が求められます。しかも、それは地の底から湧き起こるような熱いものでなければなりません。そして、その情熱によって新しい世界が実現されるでしょう。そしてその世界は、きわめて論理性の高い、合理的な世界です。
合理的というと、何か無駄なものを切り捨てるようなイメージがあるように思われますが、ここはそのような世界ではありません。
どのように小さなものも決して見逃さず、その力を発揮できるような場所に配置する世界です。どんな無駄も作らないのです。
そのような世界が、あなたの内外で形成されていくでしょう。
もし、そこで切り捨てられるように見えるものがあれば、それは最初から存在しなかったのです。
幻想に過ぎなかったのです。
安心して手放しましょう。
あなたにはもっともっと大切なものがあるのです。
 
* ゆるく、ゆるーく
今年は寒いですね。
わたくし若い頃は夏が大好きで、寒いのが大嫌いでした。ところが最近になって、このピリッとした空気の冷たさがとても気持ちよく感じられるようになり、寒い季節がとても好きになってきました。
それだけではなく、夏の暑さに弱くなったというのもあるかもしれません。
もともとの体質や生活習慣など、わたくしたちが自然に対応するときには、それぞれのありかたで過ごしやすさや好き嫌いということが起こるようです。
それは季節や自然現象だけでなく、何でもそうかもしれませんね。
何かの物事は、それそのものの値打ちや意味にかかわりなく、それを見聞したり関わったりする人の状況や好みで、よく言われたり悪く言われたりするわけです。
つまり、好き嫌いの評価などというものは、あくまでそう評価する本人の問題であって、他人には関わりないわけです。
けれど、まあ、人間関係というものがありますから、わざわざ相手の嫌いなことをしなくてもいいように、わたくしたちは気を使ったりするわけです。
そんな中で「好き嫌い」とは別に物事の判断には「正邪」「善悪」「是非」といった考え方がでてくるわけです。こちらは「好き嫌い」とは違って、とても厄介です。
なぜなら、「好き嫌い」というのが極めて個人的な評価だというのは誰しも程度の差こそあれ感じていることだと思いますが、「正邪」「善悪」「是非」というのは、何か絶対的な基準があることのように感じている人が多いからです。
つまり、善悪、正邪、是非というのは、何か絶対に抗えない、自分の判断を超えた基準というのがあって、それに従えないのは人間として恥ずかしいというように感じている人が多いということです。
でも、それってどうなんでしょう。
正しいとされることや良いとされることは、どんなときでもどんな場面でも正しいことなのでしょうか。よいことなのでしょうか。
わたくしは、絶対的に正しいことなんて、この世にはないのではないかと思うのですがいかがでしょう。
よくあることかもしれませんが、ABのどちらを選ぶかで、
「わたしはAが好きだが、Bを選ぶほうが社会的には正しい。」
というようなとき、わたくしたちはBを選ぶほうが世の中の役に立っている気がしますよね。
そして、自分の好き嫌いは置いておいて、社会的に「正しい」と思われるほうを選びがちになります。
そしてさらに、「正しい」を選ぶほうが「好き」を選ぶより「正しい」と思っています。
人間というのは社会的な動物ですから、個人の好き嫌いよりも、全体のためになるかどうかということが重要視されがちになります。
さらにその、全体のためになるかどうかという尺度が、人の好き嫌いを左右することすらあります。
けれど、考えてみてください。
世界中の人がすべて完全にうなずく「正しい」ことが、この世に存在するのでしょうか。
今、世界中で起こっている戦争、これらはどちらかが正しくて、どちらかが間違っているのでしょうか。
死刑制度はどうでしょう。人を何人も殺したら、その人は死んでもいいのでしょうか。
人の命は地球より重いといいながら、条件さえそろえば地球より重いはずのその命を奪うような社会のシステムは、本当に正しいのでしょうか。
死刑によって死を余儀なくされた人の母親が、裁判官や法務大臣に「人殺し!」と叫ぶことは間違っているのでしょうか。
これらは極端な話かもしれません。
今の日本は戦争をしていませんし、身近な人が死刑を宣告されるというような場面に遭遇することもめったにないでしょう。
しかし人の生き死にに関する重大な問題さえ、こうして考えてみると、その「正しい」という判断が揺らいでしまうのです。日常的にはそういう判断は、もっと揺れることがあるような気がします。
さきほどの「わたしはAが好きだが、Bを選ぶほうが社会的には正しい。」という判断は、日常当たり前におこなわれていると思います。
その判断自体はよいことかもしれません。
自分の思いよりも全体を考えて行動を起こそうというは、きわめて社会を大切にする考えだと思うからです。しかし、その判断の根本になっている「正しい」というのは、全ての人に共通する「真の正しさ」でしょうか。
それが単にあなた一人の思い込みではないという保証はありますか?
ひょっとしたら、他の人たちの多くは、あなたが諦めた、あなたのやりたかった、そのあなたの「好き」を待ち望んでいたのかもしれません。
「好き嫌い」の判断を横において、正しいことは何か、ということのみに焦点を合わせるのはとても優れた生き方のように思えます。しかし、実はその「正しい」というのはその人個人の尺度に過ぎないのです。
例えばごみの分別で、再生可能プラスチックの中に、ソースなどが附着したプラスチックトレーをそのまま捨てるかどうかという問題を考えてみましょう。多くの人は「洗ってプラごみ」「洗わずに普通ごみ」のどちらかでしょう。ひょっとしたら「そのままプラごみ」という方もいるかもしれません。
食品の附着したプラスチックがきちんと再生されるかどうかということや、洗えば洗ったで水を汚すのではないかということを考えれば、これはどれが正しいともいえないと思います。
それでも皆さんは、ご自分の判断で「正しい」と思う方法で分別してらっしゃるのではないでしょうか。さらにご自分とは違う捨て方をする人を見ても、ご自分の判断を人様に対して押し付けるということはないでしょう。
「あ、この人はそうしてるんだな。」とか「なるほど、この地域はこんなきまりなんだな。」というくらいの、ゆるーい判断で接するのではありませんか?
このゆるーい判断を日常のいろいろなことに拡げていってみられたら、ものすごく受け入れ上手になれると思うのですが、いかがでしょうか。
ここでは、「正しいプラごみの捨て方」という絶対的な基準が外にあるわけではありません。自治体の示すおよその基準を基にした判断がそれぞれの中にあり、他者の判断をそれぞれに尊重している形です。
そもそも「正しい」とか「間違っている」という基準を外に求めてそれに絶対的に従おうとすること自体、摩擦を起こすもとになりかねません。
「正邪」とか「善悪」とか「是非」という判断基準は、「好悪」と同様、本当はとても個人的な尺度なわけです。絶対的な判断が自分の外に存在するということ自体、幻想なのです。
そんな幻想をもとに、あれは正しい、これは間違っていると強い態度で人様や自分を判断し、感情を殺してむやみに理性の壁を築くと、自分にとって本当に必要なものを受け入れることができなくなってしまいます。
プラごみのときのようにゆるーい判断ならば、思わぬアイデアや幸運がそのゆるーい判断をかいくぐってすらりと入ってくるのではないでしょうか。
このような受け入れ上手な態度というのは、女性エネルギーの働きです。受動的なエネルギーがよく働いているかどうかということです。
反対に能動的なエネルギーは男性エネルギーと呼んでいます。
これらは実際の性別にあてはめて考えることもできますが、基本は無関係です。
全ての人や物は男性エネルギーと女性エネルギーの両方を持っています。
このうちの女性エネルギーが上手に働けば、「正しい」「間違っている」という判断にとらわれることなく、相手の行動をゆるい判断で眺め、受け入れることができるようになります。
そのゆるい判断の中では、「正邪」「善悪」「是非」「好悪」の判断は特に働くことはありません。たとえ働いたとしても、これらは同じようなレベルのゆるーい仕分けに使われるだけでしょう。
「善悪」が「好悪」に優先されるということもありませんし、「正邪」の判断によって厳しく人を見ることもありません。
すると、どんどんどんどん、ゆるーい判断をかいくぐって、素敵なことが入ってきます。
苦手なことも来るかもしれませんが、素敵だと思うことだけに焦点を合わせていれば、厳しく仕分けしなくても、苦手なものはスルーされてゆきます。
一年も終わりに差し掛かってきましたが、来るべき新しい年は、そのように、ゆるーくゆるーく上手に受け入れていってみませんか。
 
さて、今年も皆様の愛に支えられて、この「月よ月よのお話」を続けさせていただくことができました。
心からお礼申しあげます。
また来年もよろしくお願い申しあげます。
どうか、よいお年をお迎えくださいませ。
ありがとうございます。