2012年7月新月 「わたし」は自分ひとりではない

* 新月情報
7月19日13時25分、巨蟹宮26度55分の新月です。
天秤宮土星とスクエア、緊張感のある新月です。さらにこの日、白羊宮の天王星天秤宮の火星が向かい合い、ちょうどその真ん中のところ、巨蟹宮冥王星がいて、T-スクエアを形成します。これはとても強力な組み合わせです。
強い、大きな力が働きそうな感じがします。それは、野心を煽り、権力をほしいままにし、情熱を持って敵に立ち向かう力です。
新月巨蟹宮で起こるため、それは一見とても個人的な力に見えるかもしれません。
自分の居場所を守ろうとする力、自分の家族に及ぼす力。
しかしその力は、それを発揮する個人だけのものではありません。
これらの力は、古くからつながる事柄が一つの終焉を迎え、新しいステージへと進化するまさにその瞬間の爆発力のようなものです。そしてその力の現れ方を示唆する天王星と火星の緊張を解きほぐすように、拡大と保護の星である木星と過去の世界からのつながりを表すドラゴンヘッドが向かい合っています。そして、この木星ドラゴンヘッドが向き合って生み出す力は、遠い遠い過去からの便りを、現在に生きるわたくしたちが読み解いて未来の幸せへとつなぐ手助けとなるのです。
ところで、木星ドラゴンヘッドとともに、天王星と火星の調停をしている星があります。それは、獅子宮にいる水星です。木星と、その近くにいる金星とセクスタイルを作っています。木星のいるのが双児宮で、水星は双児宮の支配星です。ここでは、コミュニケーションがとても大切であると読み取れます。それは、ただのおしゃべりではありません。過去から未来へとしっかりとつなぐバトンの受け渡しなのです。あだやおろそかにはできません。
さてさらに、水星と木星はそれぞれ冥王星とインコンジャクトを作っています。つまり、ヨードです。空中ブランコの乗り手のつないだ手と手のように、完成を見るまでは離れない強い力を感じます。空中ブランコの乗り手は、落ちたらたいへんです。つないだ手が離れたらどうなるでしょう。ヨードという星のつながりは、そんな不安を感じさせます。しかし、乗り手の手と手が誤って離れる瞬間など、見たことがありますか?
くるくると回って掴もうとした手が滑って乗り手が落ちるところを見たことのある人は少ないと思います。そうなのです。離れたら真っ逆さまですが、離れないのがヨードです。言い換えれば、他には何もできないのです。
向こうから飛んでくるパートナーを、しっかりと掴んで次のブランコに渡す。あるいはゴール地点に下ろす。そんな空中ブランコのように、大切な役割が、今あなたに課せられています。
今向かっている目標、今思っていること、それはあなたにしかできません。
自信を持ってやり遂げましょう。
この新月がスタートです。
 
* 「わたし」は自分ひとりではない
わたくしたちは、現在この世に生きてさまざまな活動をしています。そしてそれは一見自分だけのもののように見えます。しかし本当はそうではありません。といいますのも、わたくしたちの存在自身が、太古の昔から脈々と続いた人類のつながりの先端だからなのです。
今回新月の星回りを見ていて思ったのは、わたくしたちは自分の夢のためにだけ生きているのではなく、はるか遠いご先祖様や、他生に生きる自分の夢を実現するためにも生きているのだということです。
今回の新月巨蟹宮ですが、この巨蟹宮の意味するところは、家、家庭、母親(または同性の親)、故郷などです。
つまり、わたくしたちが生まれて初めて出会う他人にして、その生涯の基盤を作っていく家庭内のメンバーや、家庭そのものを意味します。
わたくしたちが今回の新月においてスタートさせる「何か」は、家庭、日常の居場所、さらには仕事上での自分のホームに関連することかもしれません。
それは、とても個人的なことでしょう。
今回に限らず、およそ目標というものについては、社会や周りの人のことだけを考えて自分のことは一切願わないような、全く個人的ではないものを持っている人はそれほどいないかもしれません。
なぜなら、どんなに自分のことを後回しにしても、社会に大きな影響を与えることをしても、それが実現することによって得られるのは自分自身の満足なのです。
つまり、どんなに世の中がよくなるように祈っていたとしても、そのなかで自分自身が不幸であるというようなビジョンは描かないということです。
反対に、周りのみんなが不幸でも、自分だけが幸せだというようなビジョンもまた思いつかないものです。
つまり人間が願うことというのはおおよそ、「自分自身が満足を得られて、世の中の人もまた幸せを感じられること」だと思うのです。
ただ、人によってその視野が広かったり狭かったり、視点がどこにあるか、というような点がいろいろに違うので、わがままに見えたり自己犠牲的に見えたりするかもしれません。
そういうふうに外からの見え方はいろいろに違っても、結局わたくしたちは、自分とともに他の人も幸せになるようにという願いを持つものなのです。
個人の幸せは、世界の幸せにつながるわけです。
ところで、昔は「御家のため」とか「お国のため」という言葉があって、個人の幸せはその言葉の前に無意味になることさえありました。しかし現代では、そういう考えはずいぶん薄れてきて、ほとんどないと言っていいと思います。
特に「お国のため」という言葉について言えば、戦争中のことを思い出す方もいらっしゃるでしょうし、当時のことを学校で習ったりおうちの方に教わったりして、あまりよいイメージを持ってらっしゃらないかと思うのです。
では、「御家のため」はいかがでしょう。御家のために自分が犠牲になるとか、もう時代劇の世界ですよね。
しかし今日はこれに似たお話をしようとしているのです。
「御家のため」というと、その家の主筋の人間にとっては、これまで築き上げた家の名誉のためとか、これから家の名前を継ぐ子孫のためとかいう意味があります。
そして昔は、そのために自分の思いを断ち切ったり、夢を諦めたり、果ては命までも犠牲にしたのです。
昔は大変だったのですね。
現代では、考え方も変わり、そんなふうに家や一族を背負うことはなくなりました。
一人ひとりが自分自身の夢を追求することができるようになったのです。
とても自由な時代です。
昔の人が聞いたらうらやましがるでしょうか。
うらやましがるより、とても喜んでくださるのではないでしょうか。
一人の人間が、自分の生きたいように生き、夢を追い求めることができるのです。
しかし、これは決して自分だけのことではありません。わたくしたちにはそれぞれ家族がいるのです。
これは、社会的な意味での家族というだけではありません。
ご先祖様という大きな一族を、わたくしたちは自分の背に負っているのです。
人は一人ひとりに両親がいます。そしてその両親にもそれぞれ両親がいて、さらにそれぞれにも両親がいて…。というのは当たり前のことなのですが、あらためてそのように考えれば、わたくしたちはおびただしい昔の人々の命のつながりを受けて、生きているのだということがわかります。
科学的にはDNAとか遺伝子とかいう言葉で表わされますが、わたくしたちはご先祖様から受け継いだ体を使って、一人ひとりの夢や希望を、人類の発展に乗せて運んでいるのです。
ご先祖様もきっとどなたも、より幸せに、より立派な人生を送ることを願っていらしたでしょう。そしてそれを子に孫に伝えて、より幸せに生きてほしい、よりよい人生を送ってほしい、そんな思いをこめて空から見ていてくださるのではないでしょうか。
だとすれば、わたくしたち一人ひとりの夢や目標は、確かに個人的なものではあるけれど、その個人の夢を掴み幸せになることで、ご先祖様の幸せにもつながるのではないでしょうか。
ですから、どんなに個人的な願いであっても、それをかなえて幸せになり、回りをも幸せにできるのであれば、同時にご先祖様の夢も一つかなえたということになりはしないでしょうか?
過去からの強い応援を受けて、わたくしたちは未来へ飛び立ちます。それは大変な労力を伴いますし、痛みも生ずるかもしれません。しかしわたくしたちは、一人の人間としても、人類という種としても、前へ進まねばなりません。ご先祖様は見守っていてくださいます。
そして、ご先祖様だけではありません。
わたくしは、人間はうまれかわると信じています。
つまり、今の自分でない別の自分を生きた人生があると考えています。
そしてその別の自分は、それぞれの人生で夢を抱き、目標を持って生きてきたのです。具体的な一つ一つがかなったかどうかは別として、わたくしたちは、生まれ変わりを繰り返すことによって魂を磨いてゆきます。わたくしたちは、それぞれの人生で抱いた一つ一つの具体的な目標をかなえようと努力することによって、本体である魂を磨いていくことになるのです。そして、その魂の成長こそが本来の目的なのです。今のわたくしたちは、何百年も、何千年も続いてきた魂磨きの一つの工程にいるのです。
今生で生きている「自分」という存在、それは実は自分ひとりのものではなく、長い長い家の歴史と、成長を続ける魂の変遷に支えられた存在なのです。
ですから、自分の本当に叶えたい夢は、ご先祖様の夢でもあり、別の人生を生きた他生の自分の夢でもあるのです。
その夢に向かう道は厳しく、たとえ一人で歩いていても、決して孤独ではありません。
いつか完成する魂の成長を目指して、今は、今の自分の目標を目指すのです。
大切に、一歩一歩進んでいきましょう。