2012年5月新月「自分の行為を見つめる」

* 新月情報
5月21日午前8時48分、双児宮0度21分の新月です。
今回は、少しゆるめではありますが、ドラゴンテイルと合、ドラゴンヘッドオポジション新月。したがって、日蝕です。
金環日蝕ということで、盛り上がっていますね。
皆様どうか、安全に、楽しくご観察くださいませ。何より晴れるといいですね。
さて、日蝕ということは、まず新月スペシャルバージョンだとお考えくださいませ。例えば、毎月楽しみにしている雑誌が、年に2回くらい1.5倍とか2倍の分厚さで、すごい特集を組んで付録もついてくるというような、そんな感じで考えていただきましょう。そう、「蝕」は、日蝕月蝕がセットでおよそ年に2回ぐらい起こります。
一般に話題になるのは今回のような金環日蝕や3年ほど前の皆既日食など、日本で観察できる珍しい蝕のときばかりですが、実際は、月の通り道(白道)と太陽の通り道(黄道)の交差点(ドラゴンヘッド、ドラゴンテイル)近くで新月が起こるときに日蝕、満月が起こるときに月蝕となるのです。したがって、それぞれ年に2回くらい起こります。
占星術的に見れば、前世からの贈り物や宿題、人様との深いご縁などを表すドラゴンヘッド、ドラゴンテイルとたいへん近い位置(片方は合、もう片方はオポジション)で満月や新月が起こるのですから、一年に一、二度の何か大きな仕事の仕上がり、あるいは大きな目標へ向かうスタートラインと考えることができると思います。
さてこの日、双児宮で太陽、月の作る新月人馬宮ドラゴンヘッドが180度、双魚宮海王星が、それらのちょうど中間地点、すなわちそれぞれと90度の位置にあります。これでT-スクエア。さらに処女宮の火星がこの海王星に少し緩めのオポジションのため、ゆるいグランドクロスが出来上がります。
朝から恋人を呼び出して、金環日蝕の下でプロポーズとかありそうですね。うまくいくといいですね。
この火星と磨羯宮の冥王星がトライン、双児宮の金星と天秤宮土星もトライン、時間をかけて育ててゆく情熱や愛は、大きな力に後押しされているように思います。
また、磨羯宮の冥王星と白羊宮の天王星がタイトなスクエアですので社会的には現在の厳しい状態が依然として続くようにも思えます。先の長い話ですが、このスクエアは2016年の春ごろまで続きます。2017年には多少のゆり戻し感がありますが、政治の混迷、経済の不安といったものは、この頃には解消される方向に向かうと思われます。わたくしたち一人ひとりの小さな努力が、実り始めるのかもしれませんね。
もちろんこれらはあくまでも星の位置による予想です。現実にどうなるかはわたくしたちの行動如何によって変わります。星の示す象意は、あくまでも象意です。顕われ方はあらゆるものに左右されます。その吉凶を決めるのも、受け取るわたくしたち自身です。
例えば、古来日蝕は不吉なものとされてきました。しかし現在では、大きな事柄のスタートや、転換点という考え方ができます。そして何より、多くの人が心待ちにする楽しい天文現象です。
こういったことを含んでお考えの上、どうか星からのメッセージをよりよく生かして、生活の充実につなげられますように。
 
* 自分の行為を見つめる
前述しましたように、今回の新月日蝕です。ドラゴンテイルのすぐそばで起こります。ドラゴンテイルは前世からの宿題であったり、果たし残した義務であったりするようです。また、インド占星術では「ケートゥ」と呼ばれ、煩悩を消す解脱を意味します。そこから、解脱を得るための禁欲や沈黙の行などの象意が出てきます。(対してドラゴンヘッドは「ラーフ」と呼ばれ、現世的欲望を示します。)
西洋占星術とインド占星術では解釈に若干の違いはありますが、ここで新月が起こり、蝕となる今回の新月では、わたくしたちは自分自身と向き合い、これからのよりよい生き方を探すよいチャンスになると思います。
前回のブログで、前世から積み残したさまざまな感情を浄化するというようなことを書きました。実はこのときこれらのことについて「カルマ」という言葉を用いようかどうか迷ったのですが、厳密に言うと「カルマ」というのはこういった感情の積み残しだけとは限らないわけで、若干意味がずれると思って用いませんでした。また、「カルマ」の解釈はさまざまな書物によっても違います。視点の違いでどれも正しいと思われますし、どういった解釈であっても、わたくしたちは自分のおこなってきたこと、現在おこなっていること、そしてこれからおこなうことを、その時々できちんと把握して、見つめなおし、次のよいステップにつなげることは、日々の生活に有効であると思われます。その行為や思いのどの範囲、どの動きを「カルマ」と呼ぶのかは、個々人の解釈によると思います。
しかし少なくとも、わたくしたちがおこなうさまざまなことは、関連した別の物事を引き起こします。そしてその行為そのものを「カルマ」と考えれば、たいていどの解釈にも含まれることになると思います。
さて、これらのことを一応の下敷きとして、今日はわたくしたちの行為と周囲に与える影響のことを考えてみたいと思います。
昨年の震災と原発の事故以来、わたくしたちは自然の偉大さと、科学技術をコントロールする人間の卑小さを痛感しています。
多くの人々が、原子力発電の再開に反対していますが、別な理由から再開を望んでいる人もいます。
わたくしは、できるだけ早くこの地球上から原子力発電がなくなるといいなと思っていますが、声を大にして「反対」とは叫ばないことにしています。
理由は簡単です。毎日毎日これだけ多くの電気を直接使い、さらに電気を使って作られたものを使って生活し、その生活の事細かな事柄をこうして電気的な媒体で発信しているからです。
しかしそれはわたくしの問題です。
これをお読みの方がどういう理由で原子力発電に賛成されているのか反対されているのかはわたくしにはわかりませんし、わかったとしても、それはあくまでその人の立場で発言されることですから、「なるほど」としか言えないわけです。(実際、どなたの意見も一理あると思って聞いています。)
人は、一人ひとりその考えや行動は異なります。
そして、それはその人個人のものです。
ところが、実際にわたくしたち一人ひとりがおこなう物事は、自分ひとりの中では納まりません。何らかの影響を、自分はもちろん、他の人にも及ぼします。その影響が大きければ、人様を喜ばせたり悲しませたりということをする結果になります。
そしてその結果はまた別の行為を生み、別の人々への影響となって現れます。そうしてめぐりめぐって、また自分にかえってくることもあります。
わたくしたち人間の多くは、便利な生活、清潔な生活、安全な生活を望んでいます。そして、日本という国に住んで比較的大多数の人の生活と同じような生活をしていれば、だいたいその望みは達せられているかのように思います。
しかし、現実をよくみると、その便利で清潔で安全な生活を確保するために、自分の周囲以外のところへ意外なしわ寄せが行っていることに気づきます。
わたくしは今年49歳になりました。この世代が子どものころ、日本は高度成長期で、あらゆる工業製品の生産が増加し、さまざまな公害による危険が起こっていました。自動車の排気ガスも、現在のようなクリーンなものではなく、交通量の多い都会の道路の沿線では、喘息などの呼吸器の疾患に悩まされる人も多かったのです。それに加えて、核実験による放射線の危険は、世界的な規模で、現在より大きな危険があったと思われます。
現在では、核実験は縮小される傾向にあり、さまざまな規制や企業の努力によって、大気汚染や水質汚濁も減少しつつあります。テレビのニュースで、魚や蛍の戻った川の話などを聞いて、ほっと和んだ気持になる人も多いのではないでしょうか。
そんな中で、わたくしたちは快適な生活を望み、手に入れてきたわけです。
しかし、そのような生活を実現するために、たくさんの電気を使い、化学物質を用いていることには変わりはありません。
例えば快適な住環境を得るために、家の中に電気掃除機をかけ、河川で分解しにくい界面活性剤を使った洗剤でガラスを磨き、ほこりを落とすために電気やガスで沸かしたお風呂に入って、やはり界面活性剤を使ったシャンプーで髪を洗うという生活です。
電気を使い、化学物質を垂れ流すという行為は、結果的に自然を痛めつけ、その自然の中にすんでいる自分に跳ね返ってくる行為です。
こういった生活を改めようと、家の中はほうきで掃き、水で絞った雑巾で拭き、洗剤やシャンプーの代わりに石鹸を使うという人々もたくさんいます。せめて、自分やその周りを綺麗にするための行為で他にしわ寄せが行くのを防げるのではないかと考える人々です。
わたくしも、少しでもそういった生活に近づけようと考えています。
完全におこなうのはとてもたいへんです。日本の都会に住んでいる限り、自分の気づいていない部分でたくさんの電気を使っていますし、つい便利だというだけで電気や化学物質に頼ることも少なくありません。しかし、とりあえず何か一つだけ、そしてそれが達成できたらもう一つ、というふうに、少しだけも自然にかける負荷を減らす生活をしたいと思っています。
もちろんこれは、わたくし個人の考えで、わたくし個人の行動です。
これが「正しいおこない」というわけではありません。行為にもその結果にも、善悪はないのです。一つのあり方として書いているだけですから、当然、これをお読みの皆さんに「さあ、やりましょう」と言っているわけではありません。
しかし、もしどなたかこれをお読みになって、「そうか、石鹸だと自然にはやさしいんだな」と、食器洗い洗剤を石鹸にしてみようと思われるかたがいらっしゃるかもしれません。それはそれでわたくしがこうして書いた行為の結果だと思うのです。そしてそのことにもまた善悪はありません。
行為があって、影響が起こり、その影響がまた別の行為を生んで、別の影響を起こす。わたくしたちはその流れの中にいます。だいたいいつでもいます。そして、行為にも影響にも善悪はありません。しかし、人々の感情は、その行為や行為によって起こる影響に善悪を感じます。前回書いたように、善悪を感じる感情は、心に溜まっていきます。特に「悪い」と感じる感情は、さまざまな事柄に転じて表面にあらわれます。だからこそ、わたくしたちは、自分の行為を見つめ、丁寧におこなう必要があると思うのです。人の顔を窺えといっているのではありません。どのような結果になろうとも、真摯に受け止める覚悟で、自分自身の行為をきちんとおこなうという考えをここで書いているのです。
煩悩からの解脱、そのための修行を意味する「ケートゥ」ドラゴンテイル近くで起こる新月を前にした、わたくしの覚悟でもあります。