2012年3月新月 人類滅亡の日までにわたくしたちができること

* 新月情報
3月22日23時38分、白羊宮2度22分の新月です。
春分後すぐの新月で、たいへんパワーが強いとされます。
しかも今回のこの新月は、コンジャンクション圏内に天王星と水星を伴い、何か面白そうなこと、思ってもみなかったことのスタートがあるんじゃないかと期待させます。
どうも、何か不思議なメッセージのようなものが届くような気がしてなりません。
それは、もちろん手紙やEメールかもしれません。しかしどちらかと言うと、そのように実在の誰かから届くようなものではなく、はるか遠く、あなたを見守ってくれている別の世界からのもののような気がします。そしてそれは、メッセージというより新しい思いつき、発見や発明のような形で現われるのではないでしょうか。
また、この新月のとき、処女宮の火星は、磨羯宮にある冥王星金牛宮にある木星とそれぞれ120度をとり、グランドトラインを形成しています。ここでスタートを切る何かは、現実的で、それでいて野望に近いような目標をめざす、大きなものだと思います。金牛宮木星のすぐそばには愛と豊かさの星金星もいますので、今は地味に見える事柄でも、後々華やかさを増してゆくかもしれません。しかしそれにはある程度の時間が必要でしょう。どんなに勢いよく始めても最初から軌道に乗り華やかな成功を収めることはありません。人からは見えない努力を積み重ね、多少なりとも苦労を乗り越えた結果、成功というものがついてくるのです。そして本当はわたくしたちが目標としなければならないことは、日々のその努力であり、結果として得られる成功は、おまけのようなものなのです。
いまこの新月のときに始める物事は、長い時間を要しますし、同時に長期間の安定をももたらします。山っ気の多い仕事よりも、こつこつと積み上げる物事にこそ、成功の鍵は眠っています。
 
* 人類滅亡の日までに、わたくしたちができること
今回の新月は、春分後最初の新月です。
春分は、西洋占星術では一年の始まりです。
ですから白羊宮の新月は、一年で最初の新月ということになり、毎月の目標のみならず、一年の目標を立てるのにとても適しています。
新月の願い事を紙に書いたり、絵や写真を使って願い事を具体的に目に見えるイメージにしたり、本来の努力を助けるためのさまざまな方法をお使いの方も多いと思います。
是非、夢や目標をその手中に収めていただきたいと思います。
さて、あの地震津波から一年がたちました。
あれ以来、自然の大きさ、原子力発電所はじめ、人間のつくってきたものの危うさを思わない日はありません。
特に大きな影響のなかった関西に住んでさえそう思うのですから、現実に被災された方や、余震の絶えない地域にお住まいの方は特にそうだと思います。
わたくしたちは、より便利で快適な生活を求めて、街を作り、産業を興し、それを支える設備を作ってきました。
現代の日本は、それはそれは生活しやすい、清潔で安全で、平和な社会のはずです。
それが、あの地震で一変しました。
地震さえ来なければ、わたくしたちの生活はあのまま続いていたでしょう。
津波さえなければ、このような状況にはならなかったでしょう。
あの情報の錯綜、混乱の中で、わたくしはそう考えました。
しかし、そうでしょうか。
何か違うと思って、落ちついて考えてみました。
わたくしたちは安全に、安心に生活するために、多くのものを求め、実現してきました。にもかかわらずこんなことになってしまうなんて…。そんなふうに考えているとき、ある一つのメッセージが浮かびました。
「人間はその手で最初の種を植えたとき、道を間違ったのだ。」
そう、わたくしたちは安心安全の最初の保証として、飢えから逃れるために、種を植え始めました。
縄文時代にはすでに稲作が始まり、さらにどんぐりの植林があったという研究もあるほどですから、この日本でも、古くから人間は自分の手で食物を作っていたわけです。
世界的にみれば、さらに古い時代から小麦が作られ、パンやビールなどの加工食品ができていたのです。
例えば古代エジプトでは、ピラミッドを作る労働者は、一日の仕事を終えると、ビールでのどを潤し、おいしいパンで、空腹を満たしていたのでしょう。
メソポタミアでは、進んだ灌漑設備によって豊かな収穫が得られ、国は栄え、豊かな生活を謳歌していたのでしょう。
しかし、種を植え、水をまくという作業は、同時に自然を人間の力で変えていこうとする営みに他なりません。
誰から聞いたのか忘れましたが「耕すということはすでに自然を破壊する行為だ」という
言葉に、わたくしは衝撃を受けました。それまで、農業という仕事は人間にとって最も重要な仕事だと思ってきましたから、それが自然を破壊する行為だというのは、価値観をひっくり返されたような気持になりました。確かその言葉の意味は、「だからこそ自然を大切にしなくてはならない」ということだったと思うのですが、それでも驚いたことに違いはありません。
そこに入ってきたメッセージが、先ほど書いた「人間はその手で最初の種を植えたとき、道を間違ったのだ。」というものだったのです。
さらに、そのメッセージを掘り下げて考えようとしていたら、「戦争などの大量殺戮は、農耕とともに始まった。」という言葉をツイッターの中で見ました。
そのことが書かれてあるという本を図書館から借りてきて読み始めましたが、難しいので進まず、これから何度も借りなおして読もうと思っています。
さらにまた、NHKでも農耕と大量殺戮の関係についてのテレビ番組が放映されました。
農耕の始まりと、戦争の始まり、そしてまた自然破壊の始まり。
これらはひとまとまりのものだったと考えられるのです。
飢えから逃れるために農耕を始めて自然の形を変え、得た作物を守るために他者と戦う。
考えれば、恐ろしい現実です。
しかしもちろんそれらは野放しではなく、自然の怒りを鎮め、他者との戦いを避けるために、互いに心を許し、自然を敬い感謝するための祭祀をおこなってきました。
ところがその祭祀が宗教として根付いてゆくと、そこにまた他の宗教との争いが生まれてきます。この繰り返しが、現代までおこなわれてきたのです。
わたくしたちの生活は、そのようにして作り上げられ、守られてきました。人間という一つの生物の発展とは、地球規模で見ると、このように危ういものなのです。
しかし、わたくしたちの生活は、いまや農業なしには成り立ちません。
自然の形を変え、そこから得た富を他者と争い、争いを避けるための祭祀ですら争いを生み出す。そしてその争いに力をつけるためにまた産業を興し、そのための食物を作る…。この逃れようのない連鎖から、わたくしたち人間は、今すぐに脱することはできないのです。なぜなら、その連鎖の始まりである農業をやめれば、70億という数に膨れ上がった人間は、飢えざるを得ないからです。
もちろん、今ここで農業と言っているのは、自然から食物や生活に必要なものを得る産業全般を総称してのことです。
漁業や林業が関係ないわけではありません。
そしてそれらの上に胡坐を書いて生活するわたくしたち都市部の人間の営みも同じなのです。
産業をストップすれば、人間は飢えます。
だから、すべてをとめてしまうわけにはいきません。
しかし、今すぐすべてをやめることはできなくても、少しずつ、何かほんのちょっとでもいいから少しずつ生活の便利を追及することをとめてみることで、自然への負担を減らし、戦いへの勢いを緩める効果になるのではないかと、わたくしは信じています。
そのためにわたくしたち一人ひとりのできることは、とても小さなことだと思うのです。
料理を捨てるほど作らないとか、見ないテレビのスイッチを切るとか、少量の洗濯物なら手で洗うとか、そんなことです。もちろん、科学的な物質をたくさん含む洗剤をやめて、石鹸や重曹や微生物の力を借りる洗剤に変えることができればもっといいかもしれません。
そういう小さなことの積み重ねが、大きな意識の変革につながるのだと思います。
その意識の変革は、いつかこの人類が地球上からいなくなるときに、自滅という道ではなく、自然のリズムの中での消滅という道に導いてくれる助けになると思います。
わたくしたちは、地球上に生息する一生物に他なりません。人類という生物が誕生し、栄え、そして自然の摂理に従って絶滅するまで、住まわせてもらっているこの地球に、宇宙に感謝したいものです。そしてそれを、日々の生活の中で具体化することはとても大切なことだとわたくしは思います。
同じような考えを持っていらっしゃる方はもちろん多く、自然を守るためにもっと徹底した生活をされている方もとてもたくさんいらっしゃいます。
何かを変えるために必要なのは、声の大きな政治家でも、カリスマ性のある指導者でもありません。わたくしたち一人ひとりの、小さな心がけなのだと思います。