「スピリチュアル]っていうけれど の続き

あの日、何を思ったんだっけな。
そうそう、「癒し」に関するイベントだ。それに出展しませんかというメッセージをいただいて、その種のイベントに行くのは辛いなと思ったのだった。(ちょっと付録で、メッセージの書き方が気に入らないとか何とか文句を書いてしまったけど。)
そしてその理由を書いたあたりで終わってしまった。(しかも文章がむちゃくちゃだった(爆)
本当は、そういう理由から、いわゆる「スピリチュアル」という言葉の使われ方の安易さにうんざりしていると書きたかったし、わたくしのやっている「ヒーリング」というものだって、そんなに気楽な考えではどうかということも書きたかったのだ。
結局そこまで書けなかったのだけれど、考えとして、頭の中をぐるぐるしていた。
そもそも、ヒーリングしたからって病気が治ったり元気が出たりするとは限らない。
ヒーラーはみんな知ってると思うけど、ヒーリングしたって死ぬときは死ぬ。
極端に言えば、ヒーリングなんてしないで医学的な治療を受けたら延命されることももちろんある。
これは別にヒーリングに限界があるといっているのではない。
ヒーリングというのはあるべき状態に戻す、あるいは本来の状態に近くなるようにするためのものだ。
だから、何かで心や体が痛んでいて、本来のあるべき状態でないときや、本来その人がおこなわなければならないことができない状態である場合には、ヒーリングによって本来の状態に戻し、健康でしっかりと仕事や遊びに励めるようにすることが可能だ。
だから、しんどい人がヒーリングを受けてすぐに楽になるのは、本来ならもっと楽になれるところを、そのしんどさを自分で作って、「これはおかしい」と感じてしまっている場合だ。
だいたいヒーリングを受けたいという人の大部分がそうなので、ヒーリングをすると楽になるのが普通だ。
 しかし、本来その人がその段階でしんどいことを受け入れて頑張らないといけない場合、ヒーリングを受けてもしんどさが軽減されるというわけではない。こういう場合、結果として「しんどいけど頑張る勇気が出てきた」とかいう結果になったりする。または、自分で閉ざしていたものが解放されて、よりしんどい状況が展開されるということだってある。
だから、本来の寿命の来ている人がきちんとしたヒーリングを受けると、すみやかに死ぬという可能性もあるのである。
その場合はきっと、苦しんだりあがいたりしないで、気高く立派に天に召されることになるのだと思う。
誰もが、ヒーリングを受けると楽になると思うかもしれない。
わたくしもそう思って習い始めたし、できればそういうヒーリングがしたい。
しかし、そうはいかないのが本当のところだと、最近は思うようになった。
わたくしの考えでは、この体を持って生きているということが、死ぬことにまして優れたことだというわけではない。生きることと死ぬことはセットでひとつのことだ。一所懸命生きて、最後は死ぬ。それだけだ。
そもそも、人間の生き死になんてわからないのだ。明日死ぬかもしれない。だから、一所懸命生きるのだ。
一所懸命、一所懸命、生きて、生きて、そして死ぬときが来れば死ぬのだ。そのとき、立派に死を受け入れ、一所懸命死ぬことが大事なのだ。
「生き死に」ということを、中途半端に受け止めるとヒーラーなんかやってられないのだ。
誰だって、苦しいときにヒーリングを受けるのは、楽になるために受けるのだ。
ヒーラーは、ヒーリーの期待する結果と違った結果になったときに、本人や家族にきちんと説明できるかどうかということも大切だが、どんな結果も期待しないで受けることを納得してもらってから、本来の状態に戻るべくヒーリングを行うという姿勢が大切なのではないかと思う。
 
…と、思うけれど、まだそんな大きなことを言えるだけのことをしたことはない。
そもそもまだそれだけの覚悟ができていないのだ。
だから、「ヒーリングもいいんですが、まずお医者さんでどうなっているか見てもらってください。」なんて言ってしまうこともある。
でも、それは必要なことでもある。なぜなら、いくらヒーラーのほうに覚悟があっても、ヒーリーやその家族に、同じ覚悟があるとは限らない。いくら理解してもらっても、あらゆる方面から手を尽くしたいと思うのが人間というものだ。そしてその結果として本来の姿が顕われてくるのかもしれない。
今現在のわたくしの状況では、それほど究極の選択を迫られるような場面に出会いそうもないが、どんなに小さなお悩みでも、そこらへんのことを覚悟して、腹をくくってお受けしなくてはならないと思う。