2010年8月満月 続き(小ネタのほう)

* 自分らしく
題名をどうしようかと考えたのですが、無難に『自分らしく』としました。
実はお葬式のことについて書こうとしたのです。先日来テレビのニュースや朝の情報番組などで、お葬式についての話題に触れることが多く、わたくしなりに思うことがあるからです。でも、いきなり「お葬式」なんて題名はないなと思い、こんなふうにしました。しかも長すぎて、ブログ一回分におさまらないので後半を別に掲載するという不細工さです。あしからずご了承くださいませ。
 
さて、自分自身の「体」がこの世にある間の最後の行事が「お葬式」です。
そんな大事な行事なのに、どこのお葬式も菊の花ばかりの決まった形の祭壇、形どおりの式次第に、今までろくにきいたこともないお坊さんの読経…。
そういう、決まりきってはいるけれど、どこかなじみのないお葬式の形に疑問を抱く人々が増えてきたことから、「自分らしいお葬式を挙げてもらいたい」または、「その人らしいお葬式を挙げてあげたい」という言葉がきかれるようになったのだろうと思います。
そこには、亡くなった方を会社や周囲とのお付き合いという社会的なしがらみを脱した一人の人間として送りたいという家族の気持や、そのように送ってほしいと望んでいた故人の気持が表されているのでしょう。
そういった気持ちも反映されてか、葬儀屋さんのほうでも、ご家族や亡くなったご本人の生前の希望にそったプランをさまざまに用意されているようです。
 
ところで、自分らしいお葬式って、そんなに大切なのでしょうか。
なんて書くと、叱られそうですね。
でもわたくしは「自分らしいお葬式」にこだわることに、小さな引っ掛かりがあります。
確かにこれまでのお葬式の形は、それはそれでいくらか問題があるかもしれません。
葬儀屋さんの商業主義的な部分もあるかもしれませんし、残った家族の見栄が現れてくることだってあるかもしれません。
それに、あまりに決まり切ったパターンの飾り付けや式次第は、これまでの故人の人生とはまるで無関係なもので、故人の人間としての生き様を表現することは到底できないでしょう。
さらに、たくさんの方にお知らせすることにより、もう既にお付き合いのなくなった方々でさえ、お別れに参列してくださることに「申し訳ない」「ご迷惑をおかけしている」と遺族の方が思われるということもあるようです。
こうして考えると、せっかくの最後の旅立ちのときに、着心地の悪いお仕着せを着せられて、乗り心地の悪い乗り物に、自分の意に反して詰め込まれてゆくような感じがするのかもしれません。
しかし、形どおりのお葬式というのは、そんなに悪いものでしょうか。
そんなに悪いものを、葬儀屋さんは一所懸命勧め、周囲の人間が故人のために営むのでしょうか。
決してそんなことはないはずです。
 
昔から、人は「死」を恐れてきました。「死」の後の苦しみというものを恐れてきました。
誰も見たことがないからです。経験したことがないからです。
しかし、その土地、その宗教によって、死後の世界というものが想定され、それをどうすれば和らげることができるのか、その道の人々に教えを請い続けてきました。
また、「死んだ人」が生きている人にもたらす災いを恐れてきました。
あるいは「死」というものに触発されて、あの世から悪いものがやってくるのではないかと恐れてきました。
人間は、自分たちの住むこの世界と、死んでしまった人たちや、悪霊や妖怪などの住む別の世界があると感じていました。ですから「死」によってその境の扉が開くとき、いらざるものが入ってきたりしないように、死者がその扉を通るときに道を間違えないように、正確に案内して速やかにその扉を閉じる方法を考えてきました。
具体的にはさまざまなものがあるのですが、これは宗教や地方によって変わります。
例えば、「振り塩」一つとっても、おこなうかどうかは葬儀を出す家や故人の宗教によって違います。(多少、お寺の見解もあるようですが。)
お葬式に参列した後のお供養に入っていたりいなかったりするのはそのためです。
また、わたくしは関西の人間ですので、お葬式に花輪というと違和感を覚えます。
関西では花輪ではなく樒なのです。
たぶん関東の方は「樒」って何?と思われるでしょう。
これは「しきみ」または「しきび」と読みます。有毒の植物で、魔よけになるとされ、古来仏事に用いられてきました。
(正式には「しきみ」ですが、大阪の一部地域ではマ行音がバ行音になまる傾向がありました。例えば「さむい」(寒い)を「さぶい」というのです。)
 
お話を戻します。
こうして今の形のお葬式は、長い年月をかけてその地方や宗教によって形作られてきました。
ですから、形に決まりがあるのです。そしてそれはその宗教や地域のしきたりなのです。
昔、地域と宗教が一体で、人々の動きがあまりなかったころは、地域と宗教の矛盾は起こらなかったかもしれません。
その土地で亡くなったら、その土地のしきたりに従って悲しみを表し、その土地のしきたりに従って埋葬する。それが本来のあり方のはずでした。
しかし、現代ではずいぶんと事情が変わりました。
まず、生まれ育った土地で亡くなるとは限らないこと。個人個人に宗教の自由があること。それによって、地域と宗教はそれほど密接ではなくなったこと。
さらにそれらのことにより、特に都会では周囲の人々とのつながりが薄れ、かかわりを面倒に思うことが多くなっています。日常生活ですら、ひどい場合には近所の人と挨拶すらしない人々もおられるくらいです。
しかもそれだけでなく、親子兄弟ですら何年も音信不通ということがあるようです。
昨今、百歳を越えたお年寄りが実は所在不明であるという事例が次々報告されているということは、皆さんもテレビや新聞でご存知のとおりです。
自治体の仕組みの頼りなさもさることながら、家族というもののつながりの薄さ、地域の無関心さ、あるいは一部分の人々の地域に対する拒絶の態度には、驚くべきものがあります。
昔から、日本はこんなだったのでしょうか?
いえ、そうではなかったようです。
例えば江戸時代などは、誰がどこに住んでどのお寺に属していてというようなことがわりにしっかりと記録されていました。家族が多少崩壊していたり、行政のいい加減な部分はある程度あったかもしれませんが、地域の助け合いはけっこうきちんと機能していたようです。
町内で一人暮らしのお年寄りが病気になると、みんなでかわるがわる食事を作ったり、洗濯や掃除をしたりしてお世話したそうです。また、亡くなったら、みんなできちんとお葬式をし、埋葬までお世話したそうです。
小さな子どもが両親を病気や事故でなくした場合も、里子に出すまで世話をしたり、里子に出さなくても、その子がきちんと奉公に出られるようになるまで、近所中で面倒を見たのです。
地域がきちんと助け合い、互いの身が成り立つように機能していた江戸の昔なら、今のようにお年寄りがいなくなっても誰もわからないというような不思議な状況になることは少なかったでしょう。(ただし、幼児の迷子は事情が違ったようです。)
ましてや、身近で誰かが亡くなったとなれば、地域のみんなで亡くなった人を惜しみ、できる限り形の整った葬式を行なったに違いありません。
もちろん、家族がいてその家族がきちんとしたお葬式を出せる場合でも、ご近所はお手伝いにはせ参じました。大切な家族を亡くした人々は、弔問客の接待や食事の支度などのさまざまな雑事に煩わされることなく、ひたすら故人を弔うことに終始できたのです。
現代でもそれらの事柄が生きている地域はあります。
わたくしが父を亡くしたときは、そういった地域に住んでいるときでした。
その地域では町会そのものが大変決め細やかに機能しており、お葬式の段取りというものもほぼ完全に決まっていました。
お通夜があけたお葬式の朝、婦人部の方が作ってくださったお煮しめとおむすびを前にうすぼんやりしていると、食事の世話をしてくださっていた婦人部長さんに「しっかり食べとかなあかんよ。」と励まされたことを覚えています。
何から何までお世話になり、とてもありがたいことでした。
このように、家族は雑事に煩わされることなく、仏様の傍らにいてお線香やお灯明の火を絶やさないようにしたり、お寺との連絡や親戚との打ち合わせなど、お葬式の中心的なことだけを考えていればよかったのです。
地域の人情と心意気に支えられたお葬式は、死者を送る家族の悲しみを思いやる、とても美しいスタイルなのです。
そこに存在するのは、誰もが同じ悲しみを経験するという共感、「お互い様」の心です。
宗教的な様式によって、亡くなった人の旅立ちを守り、人々の支え合いによって、残された家族を慰め励ます、そういったお葬式が日本のお葬式の原点なのではないかと思います。
そこには、「自分らしくしたい」「人様(どころか家族にさえ!)に迷惑をかけたくない」という考えは存在しません。誰もが通る同じ道として、「みんなで」死者を送るのです。
そこには、故人の新しい旅立ちへの畏敬の念がこめられます。
死後の世界と、そこへ旅立つ人への畏れをあらわし、表現できない大きな悲しみを抱く家族が、死者を弔うというそのことだけに心を向けられるように作り上げられてきたのが日本のお葬式だったはずです。
こんな美しい習慣を、わたくしたち現代人は、今変えようとしています。
「お葬式は家族だけ」とか、「自分らしさを表したお葬式に」という言葉にそれが表れています。
お葬式で、人様に迷惑をかけず、生きてきた証を表現するという考えは、この世での人生を中心とした視点からの考えだと思います。
そしてそれは、死後もまた、今生きているのと同じような生活を営むという考えによるのでしょう。
または、死後も家族の思い出の中で生き続けるという思いから来るものかもしれません。
もちろん、人は死んだらどうなるのか、というのは人類にとって永遠の謎です。見てきた人はいるようですが、それを証明する人はいません。
死者の旅立ちの行く先は、あくまでも生きている人の思いがつくるものでしかありません。
今は、その思いの傾向が変わっていく時代なのかもしれません。
 
あの世とこの世は混沌と交じり合っているという人がいます。
しかし、その境目がひらき、交じり合った一方をふと感じるとき、やはり死者は死者として弔うことには何らかの意味があるのではないかとわたくしは思います。
ただ、それはあくまでわたくしの感覚です。
死後の世界のことはやはりわからないのです。
ですから、生きていたときと同じようにその人らしい送り方をするというのも決して理屈の上からは間違いではないと思います。
誰にも迷惑をかけたくないというのも、現代の、この世の人々の意識の変化の中では当然かもしれません。
ただ、そういった考えに接したときに感じる小さな引っ掛かりを、わたくしはなかったことにすることができません。
そんなわけで、わたくしが旅立つときは、昔からある普通の方法、日本で培われてきた美しいお葬式の作法で送ってくださいね。
とはいえ、長生きするつもりですから、そういう作法が残っていればの話です。
もし葬儀屋さんに「そんな古いやり方、通用しません!」と言われたら、「一番売れ筋はどれですか?」と尋ねてください。その売れ筋の一番お安いパックでお願いします(笑)