2010年6月満月

* 満月情報
6月26日20時31分、山羊座4度46分の満月、月蝕のおまけ付きです。
同じく山羊座冥王星と0度です。
天王星木星牡羊座のはじめのほうで0度の関係にあります。
太陽と水星は蟹座にあって、やや離れていますが0度と見ます。
月、冥王星の組と太陽・水星の組が真向かい(オポジション)になり、それらのちょうど間(スクエア)の位置に天王星木星の組がいるわけです。
この関係は、Tスクエアといいます。普通は、3個の星でできるんですが、今回は2個ずつ組になって、6個でできています。
強力です。
しかも月蝕ですし。
でも、なんだか笑ってしまいます。というのも、Tスクエアも月蝕も、古くは「凶兆」なのです。
しかし、現代ではこれらを単純に「凶兆」と読む占星術家は少ないのではないでしょうか。
むしろ、なかなか動かなかった物事を大きく動かす星回りとして、期待感をこめた読み方をしている占星術家も多いのではないかと思われます。
今まで隠れていたものに光が当たり、思いもよらない大きな動きが展開していくという期待に満ち溢れた星まわりです。
もちろん、これまで隠していたことが発覚してしまうこともあるでしょう。触れられたくないことが人の口の端に上ることもあるかもしれません。しかしそれ以上に、これまで頑張ってきたこと、我慢してきたことが、ついに終わりを告げ、新しい世界へ向かって歩き始める、いえ、ジャンプするというほうが近いかもしれません。
「起爆」という言葉を使いたいところです。
満月、しかも月蝕ですから、単純に「始まる」というのではないのです。準備が整って、時間が一杯に満ちてきて、突然、何かが起こり、新たなことが始まる。そんなイメージです。
 
* 神仏を拝む……お稲荷さん
今回の満月あたりで、長い間の念願がかなったという方も多いのではないでしょうか。
新月に願い事を書き続けた方や、よいイメージを思い浮かべてガッツポーズを続けた方、パワースポットといわれる場所へ何度も足を運ばれた方、この記事をお読みの方の多くが、そういった形で何らかの「力」をいただいて一つの願いの完成を迎えられたのではないかと思います。そして、その完成が新たな目標へのスタートとなっているという方も多くいらっしゃると思われます。
さて、そんな皆様の中には神仏へのお参りを欠かさないという方もいらっしゃると思うのですが、いかかでしょうか。
やはり、「苦しいときの神頼み」ではありませんが、何か大きな目標ができたときに神仏にお参りするというのは、自分の目標を新たにし、必ず達成することを誓うという意味で大切な気がします。大きな目標を掲げ、それに挑戦する自分を見守ってくださる神仏の存在は、大変有り難いものです。
では、皆様は日々どのような神仏に手を合わせていらっしゃいますか。
それはもう人それぞれだと思いますが、今日は、ひょっとしたら皆様の中でも信心してらっしゃる方が多いかもしれない「お稲荷さん」のことについて書こうと思います。
 
お稲荷さんと言えば、時代小説ファンのわたくしは、「伊勢屋、稲荷に、犬のくそ」という言葉を思い出します。
江戸の町では、伊勢屋という屋号の店、お稲荷さんのお社、そして犬の糞が、やたらあちこちにあるという意味の言葉です。
現代でも、公の場所以外にも、屋敷内にお稲荷さんの社を置いてお祀りしてあるところもたくさんあります。
犬の糞と並べるのもどうかと思いますが、それだけあちこちにあって、江戸庶民には身近に親しまれた神様だったのでしょう。
 
それはそうと、お稲荷さんって、どんな神様なのでしょう?
そういうと、真っ先に思い出すのが狐ですね。
お稲荷さんには狛犬さんのかわりに、お狐さんがいらっしゃいますよね。
お供え物も、お酒だけではなく、お揚げさんをお供えするのも、狐の好物とされるからだそうです。
では、お狐さんがお稲荷さんなのでしょうか。
実はそうではないのです。
お稲荷さんの総本社、京都にある伏見稲荷大社主祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたま)といて、穀物や食物の神様です。
つまりお稲荷さんはもともと、穀物、食物、豊穣の神様で、それから転じて産業全般、商工業の神様として親しまれてきたのです。これは「稲荷」という字を見てもすぐに見当がつきますね。
さらに宇迦之御魂神(うかのみたま)は、別名を御饌津神(みけつ)といい、このお名前の「ケツ」という音が、狐の古名である「ケツ」と同じだったということです。
また、狐は古くから神聖視されており、民間信仰の対象でもあったため、同一視されたと思われます。
このようなことから、お狐さんは、お稲荷さんにお祀りしている神様のお使い「眷属」としてわたくしたちの親しむところとなったのです。
また、神仏習合では、荼枳尼天(だきにてん)という仏様が本地仏とみなされました。この荼枳尼天は、狐にまたがって登場します。
荼枳尼天は、もとはインドの女神で、ダーキニーといいます。彼女はカーリーと同じく破壊と殺戮の女神です。実は彼女が現れるときに乗っているのはジャッカルなのですが、中国、日本へと伝わるにつれて、ジャッカルが東アジアにはいなかったこともあってか、いつしか狐になっていたようです。
そして神仏習合の際に、狐つながりで稲荷神として祀られることになったのですね。
現代でも愛知県の豊川稲荷では、この荼枳尼天をお祀りし、信仰を集めています。
ところで、この荼枳尼天は、かなり強力な力で人々の願いを聞き届けてくださるそうです。
しかし、気軽な気持でお願いするといけないそうで、一度願い事を聞き届けてもらったら、一生信仰し続け、お祀りをしないといけないということです。
当たり前のことなのですが、約束に厳しいということですね。
 
さて、古くから日本では神聖な動物とされてきたお狐さんを眷属に、お稲荷さんは町のあちこちでわたくしたちを見守ってくださっています。
霊験もあらたかで、実に強い力でわたくしたちの願いを聞き届けてくださいます。
身近すぎてつい見逃しがちな神様ですが、日々信心すれば驚くほどの力を授けてくださるのではないかと思います。
ちなみに、荼枳尼天は約束に厳しいと書きましたが、何も荼枳尼天に限ったことではないと思います。
神様はみんな、約束は必ず守ってくださいます。
人間がその約束を忘れるのです。忘れて、せっかくの幸福を自分で台無しにするのです。
しかし神様は、そうして約束を忘れた人間も、もれなく見守っていてくださいます。
ばちを当てるなんてこともありません。
だからといって、それでいいのでしょうか。
 
「神様はばちを当てない」と、わたくしは前々からそう考えています。
仏様も同じです。
いつもいつも、神仏はわたくしたちを守ってくださり、時々、宿題を出したり、試験をしたり、そしてその結果を見て「頑張ろうね。」といってくださるのだと思っています。
時に驚くほどの不運に見舞われることがあるかもしれませんが、それはばちが当たったのではなく、もっと大変なことがあったかもしれないのに、その程度で済んだということだと思うのです。
 
例えば、小さな子どもが道路で遊んでいたとします。「車が来るから気をつけなさい」と母親が言います。子どもはきかずに遊び続けます。とうとう本当に車が来ますが、母親は車がやってくる直前に子どもの手をひいて、無理やり道の端っこに連れて行きます。母親が無理やり引っ張ったので、子どもの腕には青あざができたかもしれません。子どもは遊び場所から引き離され、走ってきた車におもちゃを壊され、散々だと怒るかもしれません。
でも、子どもは車に轢かれることはなかったのです。
引っ張られる前におもちゃを片付けて安全なところに移動していれば、何事もなかったのです。
しかし、ぎりぎりまで子どもは母親の言うことを聞かなかったため、母親は無理やり引っ張らざるを得なかったというわけです。
わたくしたちと神様の関係もこのようなものだと思います。
何かことがあったとき、ばちが当たったと考えるよりは、すんでのところで救っていただいたと解釈するほうが、前後の関係が落ち着きます。
最終的には、「やっぱりあそこでやり直してよかったね。」とか、「あそこで失敗しなかったら、この間違いに気づかなかったよね。」なんて、日常の普通の会話ではよくあることです。
そう思えば、本当に有り難いと思います。
 
今回、満月を迎えるにあたり、ご自分の願い事が叶わないとか、最近よくないことばかりが起こるという方は、もう一度落ち着いてご自分の状況を見つめなおしてみられてはいかがでしょうか。
願い事は、何でも聞き届けられるというものではありません。最終的に「やっぱりこれでよかったよね。」というものだけがわたくしたちの手元に残るのです。
神様は、もちろんそういったことはお見通しです。
ですから、わたくしたちの人生に本当に必要のない願い事には「叶えない」という形で答えを下さるのかもしれません。
もし本当に必要ならば、必ず叶えてくださいます。
ただ、今が時期ではないだけなのかもしれません。
ですから、よくご自身を見つめて「必要だ」という答えが出たならば、どうか、あきらめないでいてください。
そして、神仏に手を合わせ、ご自分が今ここでこうしていられるというそのことを、まず喜び、感謝できると、よりいっそう幸せが近づいてくるのではないかと思います。
もちろん、わたくしは何かの教団に属してくださいといっているのではありません。
既に伝統的な宗教に属しておられる方は日々の信仰を新たにされるといいと思いますが、特に宗教をお持ちでない方は、まず、氏神様やご先祖様への感謝の気持を、手を合わせることで表してみられると素敵だなと思うのです。
神仏もご先祖様も、わたくしたちのことをずっと見守っていてくださいます。
わたくしたちが知らん振りでも同じです。
でもやはり、手を合わせて「ありがとうございます」と言ったとき、「ああ、頑張ってるな。よかったな。」と喜んでくださるのだと、わたくしは思っています。
 
そうそう、今日はお稲荷さんのことでしたね。
お稲荷さんも、やはり同じではないかと思います。
どこにでもあって身近であるということは、それだけわたくしたちの近くで守ってくださっているということです。今日これをお読みになって、「そういえば、近くに小さな赤い鳥居があるなぁ」と思われたら、それはお稲荷さんが、「見てるよ」と言ってくださっているサインかもしれません。
お稲荷さんはきわめて強力な神様ですから、お願い事の一つや二つ、わりに簡単にかなえてくださいます。しかし、やはり神様は神様。わたくしたちが本当にほしいものは既にご存知です。
お願い事をするよりも、まず感謝を表明したほうが、思いも伝わるというものです。
 
実はわたくしの夫の実家の庭にも、お稲荷さんのお社があります。
このほど家の工事をするのですが、お社はどうなるのかと義母に聞いてみると、「お社はそのまま。神様だからね。動かさないよ。」ということです。
 
皆様のご近所にも、周辺がどんなに変わってもそこだけは変わらないお社とか、ご神木があるのではないでしょうか。道の真ん中にデーンと木が生えているなんて、わりに普通の光景ですものね。
神様にはやはり居心地のいい場所、わたくしたちを見守りやすい場所があるのです。
だから、道路を広げても、建物を建てても、動かせないものは動かせません。
見守ってくださる神様と、祀る人々の感謝。これできっとわたくしたちの世界のバランスが取れているのではないかと思います。
いつも長々と書いてしまいますが、これからさまざまな目標に向かわれる皆様のご参考になれば幸いです。