2009年8月新月

新月情報
このところ、台風や地震など、次々に災害がやってきて大変なことになっています。
被災地の皆様、お見舞い申し上げます。
少しでも早く状況がよくなりますように。
さて、今回の新月は、8月20日19時3分獅子座27度32分でおこります。
獅子座というのはとても元気のいい星座です。ここで起こる新月ですから、元気よく何かを始めるきっかけにしたいものです。
実は前回の新月以来、いろいろとわたくしの考えに変化が起こり、今、宇宙に関する科学的な本を読んだりしております。
日ごろとても非科学的なことをしていますので、逆に、科学的なものの見方を失ってはいけないということに改めて気づいたのです。

占星術と科学
「科学」という言葉を見ると、なんだか心が躍りませんか?
ベランダの植木にひっかかっている虫や、その虫がひっかかっている植木そのもの、夜空の星や、川の流れ、魚や、犬猫、または、台所にあるあれとこれを混ぜたら汚れが良く落ちるとか、逆にあの洗剤とこの洗剤を混ぜたら危ないとか、そこら中に存在するありとあらゆるものを観察し、研究し、その仕組みを解明していく「科学」とは、なんて素敵な学問なのだろうと思います。
しかも、日々発展してとどまるところを知りません。
ですから、「科学」、「科学的」と聞くと、とても心惹かれるのだろうと思います。
しかし、こと星占いに関する事柄について、「これは科学的なのです」と言い切ってしまう人や書物に出会うと、なんだか居心地が悪くなってしまいます。
だいたい、占いに科学的な根拠があるとは、わたくしには到底思えませんし、「この占いは科学的だ」などという占いがあったら、「こんなのあたらねえな。」と、つい思ってしまいます。
これは、別にわたくしが占いを否定的に見ているということではありません。
むしろ逆です。
そもそも科学的というのは、きちんとした実験データや客観的な観察によって、人間の目で見て確認して整理できるものだと思います。
しかし占いは違います。科学では知りえないこと、科学の範囲を超えたものを扱うのが占いです。
たしかに、かつては星占いと天文学は同一のものでしたし、まじないと医学も同一のものでした。しかし、科学の発達とともに、それらははっきりと二つに分かれたのです。
天体の観測技術や計算方法の発達、さらに「神様がお創りになった宇宙の中心である地球」というスタンダードからの脱却。こういったものが科学(天文学)を占い(占星術)から離してゆくことになったのでしょう。。

現在、西洋占星術では春分点牡羊座の0度とされています。しかしこの牡羊座は空に輝く星座の牡羊座ではなく、占星術における概念としてもたれている黄道十二宮の白羊宮のことです。この黄道十二宮という考えはギリシア時代に整備されましたが、紀元前2世紀ごろ、ヒッパルコスという天文学者によって地球の歳差運動が発見され、春分点が少しずつずれていくということがわかったのです。現在の春分点は実際に空に輝く魚座の端っこのほうにあり、500年以上先には水瓶座に移動するということです。
また、西洋占星術で使うホロスコープという図は、天動説が基本となっています。
16~17世紀の、コペルニクスガリレオの功績は、学校でも習いますよね。
今では、天が地球の周りを回るなんてありえないことくらい、少なくとも日本では小学生でも知っている当たり前のことです。
ちなみに、コペルニクスよりずっと前(およそ1800年前)のギリシア時代に、アリスタルコスという天文学者がいました。彼は月と太陽の大きさを測定し、そこから地動説の可能性を唱えました。およそ紀元前300年ごろのことです。
というわけで、実は西洋占星術は、その確立した紀元前のころから、科学とはずれ始めたのです。

星と星との距離、動き方などを観測し、それらの状況から宇宙のあらましを知る天文学
わたくしたちはその片鱗を、テレビの特集番組やプラネタリウム科学雑誌などで知ることができます。難しそうではありますが、なんだかわくわくする素敵な感じのする学問です。
わくわくするけれども、基本はやはり「科学」です。正しい観測と実験の積み重ねという「科学的」な態度がなければ成立しません。
それに対して、夜空に浮かぶ星の位置や、そのそれぞれの星が持つといわれる性質や、それらの関係からイメージを読み取っていく星占い。
これらの作業は、占者の想像力と表現力に拠るもので、「科学的」とは程遠いものです。
現代ではこのようなものを「非科学的」と言っています。
しかし、「非科学的」だからといって、その存在そのものが「ありえないもの」ではありません。
「非科学的」というのは「科学的にまちがったもの」だけではなく、「まだ科学ではわからないもの」をさすこともあります。
占星術は「科学的にまちがったもの」を土台としていながら、「まだ科学ではわからないもの」を読み解こうとしています。それは「科学」の中におさまっていてはできないことです。
「科学」に立脚すれば、それは何をやっても科学にしかなりえません。わたくしたち占い師は、科学を超えたところで日々星を読むのです。それは、数値や計算では出てこない、人や世の中の動きです。
現代社会では、「科学的」なものが「非科学的」なものより良いものであるかのような考え方が多くの人の心にしみこんでいます。
科学的か非科学的かは物事の優劣ではなく、単に「人間が解明して知りえた物事であるかどうか」の区別に過ぎません。
さらにこの世界には、「科学的」かどうかとは関係なく、重んじられ、大切にされているものはたくさんあります。
芸術や哲学などです。
占い師の作業は、まさに「芸術的」あるいは「哲学的」というほうが近いのだと思います。
「芸術的な占い」などというととても素敵で心地よい気がします。また、「哲学的な占い」というと、とたんに難しく、人生の深い部分まで見てもらえそうな気がします。ところが、「科学的な占い」というと、ものすごく胡散臭い感じがします。
それは、世間一般で「よいこと」とされる「科学的」なものを占いも持っているのだと主張することで市民権を得たいという、一種卑屈な態度が見え隠れするからかもしれません。

今の科学では、そもそも占いの仕組みなどは解明できません。
しかし、科学はどんどん発達しています。ひょっとしたらいつか、科学が占いに追いついて、その仕組みを解明しようとするかもしれません。
しかし、今の科学にはまだその力はないのではないかと思われます。
わたくしたちの精神が作り出す世界は、宇宙よりもはるかに広くて、果てなどまったくないのです。
そして科学も占いも、その人間の精神の働きがわたくしたちに与えてくれた、素晴らしい贈り物なのです。
科学的か非科学的かなどというところで議論するよりも、それぞれの可能性を夢見て、日々楽しむほうがずっと面白いと、わたくしは思います。