2012年1月新月 「行為」と「結果」

* 新月情報
1月23日16時40分宝瓶宮2度42分の新月です。
この新月金牛宮木星と90度、この木星は白羊宮の天王星と30度、この天王星新月と60度です。また新月のいる宝瓶宮には海王星もいて、これが天秤宮土星と120度で、この土星木星とサインをまたいでの180度、処女宮の火星と36度、人馬宮ドラゴンヘッドと45度、火星は磨羯宮の水星と120度、ドラゴンヘッド双魚宮の金星と90度、水星は宝瓶宮海王星と36度、金星は磨羯宮の冥王星と60度。これで全部かな。主要な天体同士はみんなアスペクトを作っていますね。
それにしても、新月木星と90度で、天王星が絡んでいるというのは、なんだか爆発的に面白いことが起こりそうで楽しみですね。あるいはここで起こったことは、思いもかけず大きな広がりを見せるというか。土星海王星との絡みを考えてみると、これは必ずしも全く新しく始まることではなくて、すでに水面下で進んでいることが芽吹いてきたと解釈するか、あるいはここで始まったことはまだ具体的な絵には見えず、今年の秋以降に徐々にその姿を現すと解釈すべきでしょうか。
何しろ2013年の7月に、土星海王星木星のグランドトラインがあるので、そのあたりで何か落ち着きを見せるようなことが起こるかもしれませんね。
さて、このところずっと気になっているのは、天秤宮29度の土星宝瓶宮29度の海王星のトラインです。
交友関係やパートナーとの関係が、一つのピークを迎えるときなのかもしれません。あるいは新しい世界に向かっての最後の努力。後一押し扉を押せば、次の部屋に進める、そんな一押しの時間が、2月4日ごろまで続きます。
その後は、一押し押した後のドアの隙間に足を踏み入れ新しい空気を吸う爽快さを得るでしょう。
そして秋、10月からは、これまで努力したり知恵を絞ってきた事柄がふいに軽くなり、豊かな果実を得るのだと思います。その果実は、食べるためには思いもかけず手間のかかるものかもしれませんが、少しずつ味わいながら滋養にしていくことになるでしょう。
 
それにしても、今年の10月とか来年の7月とか、気の長い話ですね。
実際、先の先まで暦があるので、見ようと思えばどんなに先の話でもみることはできるわけなのですが、その頃どんなことが起こるか、何をしているか、そういうことは星に聞くよりご自分の理想に聞いたほうがよさそうですね。その理想にしたがって、星は適切な支援をしてくれるのです。
だって、どんなにいい星回りでも、それを生かすことをしないでただ口を開けて待っているだけでは、だあれもご飯を運んでなんかくれません。
いい星回りを生かすには、自分で動くしかありません。しかも、今自分がなすべき生活のさまざまなことを、丁寧に一つ一つ、自分なりのやり方で片付けていくより他ないと、わたくしは思います。
 
* 「行為」と「結果」
思うところあって、久々に「バガヴァッド・ギーター」を出してきています。
来月早々、海王星双魚宮に移動します。海王星双魚宮の支配星なので、海王星はその「本来の座」に帰ることになります。
これと「バガヴァッド・ギーター」に何か理論的なつながりがあるというわけではありませんが、一つの惑星がその本来の座に帰ることを一つにきっかけとみて、一度わたくしたちの「行為」と「結果」の意味について考えてみたいと思ったのです。
 
わたくしはここ数年、「丁寧に生きる」とか、「目の前のことを一つずつ」とか、そういうことをよく書いているのですが、実はその原点はこの「バガヴァッド・ギーター」にあります。
以前にも書いていますので、「またあれか」と思われた方はごめんなさい。暫しお付き合いを願います。
「バガヴァッド・ギーター」とは「神の歌」という意味で、何代にもわたる一族の内乱を描いた「マハーバーラタ」というインドの古典、一大叙事詩の中の一編です。
この「マハーバーラタ」の主要人物である勇士アルジュナが、一族の中で争うということに深く心を痛めて戦意を喪失している中で、御者であるクリシュナがその戦意を鼓舞するために説いた教えが「バガヴァッド・ギーター」なのです。
ここに出てくるクリシュナとは、最高神ビシュヌの化身です。
本文では、このクリシュナが、戦士であるアルジュナの生き方を説くことによって、人間のあるべき姿を唱えています。
アルジュナは、同族同士が戦うことに大変心を痛めています。これは人間として実にあるべき姿だとおもうのですが、神であるクリシュナはそうは言いません。
「あなたは戦士なのだから、戦うのがあなたの義務だ。だから戦いなさい。」
クリシュナは、人間があるべき姿であるためには、現世における自分の義務を果たさなければならないと説くのです。その中に、このような一節があります。
「行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする人は、放擲者(サンニヤーシン)でありヨーギンである。単に祭火を設けず、行為をしない者は、そうではない。」(第6章)
わたしはこの部分が大好きです。
「行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする」というのは、わたくしの毎日の生活の目標です。常にこのような心持でいられるようにしたいと思っています。
本編では、すべての行為を神様への供え物として行なうというような意味のことも書いています。もちろんわたくしはクリシュナを信仰する宗教に入っているわけではありませんので、そんなふうに徹底はしていません。しかしそれでも、自分の行うことの一つ一つを、行為の結果としての、家族や社会の評価やさまざまな損得から切り離して考えるのはたいへん難しいことです。
わたくしたちは、結果を気にしないとはいうものの、やはりどこかで自分の行ったことが人様の役に立ったり、自分にとっての喜びをもたらしたりというようなことを期待します。
結果として起こったことを喜び感謝するのは、それはそれで素晴らしいのですが、そのことを思うあまり、ついつい意識がそちらへシフトしがちになることも多々あるかと思います。
そんなわけで、期待した結果が得られるときはいいのですが、そうでないときは、「せっかく頑張ったのに喜んでもらえなかった」とか、「努力したのに本番で失敗した」とか、そういう残念に思う気持が生まれることがあります。
しかしもし、それまでの行為そのものを目的として、行為そのものを一所懸命行うというという姿勢でいたらどうでしょうか。
誰かのために一所懸命行なったことが、たとえうまく役に立たなかったとしても、行なうことそのものに喜びを感じ、一所懸命であれば、その結果は別に気にすることもないはずです。一所懸命練習を重ねて、一致団結して戦った試合に負けても、練習や試合そのものを、自己の目的とするならば、そこに後悔は生まれません。
わたくしたちが何か努力して報われなかったとき、悲しかったり後悔したりするのは、努力しているときに「その結果、どうなるか」を想定し、そこに喜びを見出そうとするからです。
もちろん、生活の中では行為と結果は密接な関係がありますから、切り離すのは難しいでしょう。
子どもが勉強しやすいように環境を整えるのも、高額な塾に通わせるのも、「成績を上げる」という「結果」を期待しているからです。
お休みを返上してお客様のところへうかがうのも、「喜んでいただいて買っていただく」という「結果」を求めてのことです。
これらを「結果」なしで考えるのは実に難しいことです。
それでも、少なくとも行為そのものを大切に思い、その行為そのものを楽しみ、努力を惜しまないという姿勢になってみれば、何かがほんの少し変わるのではないかと思います。
突然ですが、実は近頃の「スピリチュアル的」なものの流行は、これの対極にあります。
売られている書籍の題名や雑誌の見出しでも一目瞭然です。
「お金に好かれる方法」
「願いがかなうパワーストーン
「恋に効くパワースポット」
どれもこれも「目的を簡単にかなえるための行為」の方法を打ち出しています。
けれども、目的(結果)のためだけに無闇に何かをするって、つまらないと思いませんか?
貯蓄なら、日々の節約の工夫を楽しむことができますし、パワーストーンはその美しさや日々のファッションとの取り合わせを楽しむことができます。恋なんていうのは、毎日がジェットコースターでいいじゃありませんか。けんかしたり仲直りしたり、プロポーズしたのに「あなたとは友達」って言われたり。もうそれだけで映画の主人公になれます。
そのように、行為そのものを楽しめば、それだけで毎日が彩り鮮やかで素敵な日々になると思うのです。
少しだけ考えをシフトして、今あなたの手がおこなっているその行為にだけ、意識をむけてみませんか?
「そうしたら、願いはかないますか?」
なんてこと、聞かないでくださいね。
 
《参考》「バガヴァッド・ギーター」 上村 勝彦訳 岩波文庫