2011年7月新月(2回目)

* 新月情報
7月31日午前3時41分、獅子宮7度16分の新月です。
今月、新月2回目ですね。満月のときはブルームーンって言ったりしますけど、新月は何ていうんでしょうね、占星術的にはあまり意味はないんですけどね。
さて、新月ですから、月と太陽は同じサインにいます。獅子宮は太陽のホームグラウンド。太陽の力が遺憾なく発揮されます。たくさんの惑星を従える太陽系の中心の星、太陽は、みんなのあこがれであり、動かぬ目印です。その太陽の力を、やさしい月がしっかりと受け止め、わたくしたちに届けてくれます。どっしりと、力のある新月です。
この太陽と月は、金牛宮木星と90度。妙にのっしのっしという感じがします。固着宮ですもんね。あまり活発に動くというより、自分の足の置き場所を一足ずつ確認しながら進む感じ。でも、ここで動いたことはしっかりと力を持って、わたくしたちの中に根を下ろします。新月ではありますが、始まりのワクワク感よりも、ここに根を下ろすという決意の方に意識を持っていくと、物事の動きのゆっくりさは気にならなくなるでしょう。
またこの太陽と月は、少しゆるいながらも白羊宮の天王星と120度を作っています。田畑を耕すのに邪魔な大きな石でも、やすやすと動かせる、何か驚くような力が発揮されるでしょう。何しろこの天王星は、磨羯宮の冥王星と90度です。隠れた力に助けられます。
ちなみに金星もこの新月と同じ獅子宮にいて、白羊宮の天王星とは新月よりも少しだけタイトに120度。何か面白いこと、びっくりと喜びをくるくるポンしてできるような、そんな面白いことを思わず期待しちゃいます。
 
それにしても、どうみてもこの新月から感じるのは「わたしはここで生きていく」的な強さです。
スカーレット・オハラが、一人荒野に立って、「明日がある。」とか言っていた「風とともに去りぬ」の最後の場面を思い出します。(ちょっと違うかも。見てから年月がだいぶ経っているので)
「始まる」というのは、必ずしもワクワクしなくてはならないというものでもないと思います。
ただ、しっかりと地面に足をつけて立ち、自分の存在を自分自身でしっかりと受け止め、「ここにわたしがいる。」という、ゆるぎない生の認識からスタートしてもいいと思います。そして、これからの自分をもしっかりと受け止める力を、自分の中に見出すような、そんなスタートがあってもいいと思うのです。
今回の新月は、まさにそんなスタートになりそうです。
 
* 「自分らしさ」ということ
今回は獅子宮新月ですね。
自己アピールとか、自己表現とか、そんなことに関する何かをスタートさせるのによさそうな気がします。
自分が周りの人から注目を受ける何か、周りの人とは違う自分自身の魅力、そういうものを探せたら、誰でももっと自分に自信が持てるのかなと思います。
 
ところで、周りの人とは違う自分自身の魅力って何でしょうね。
仕事面でこれを知ってると強そうですよね。
そこを生かして業績を上げたり、会社に貢献したりして、出世も思いのままとか。
恋愛面だとどうでしょうね。
そこをしっかりアピールして、モテモテになったりとか。
 
大体はそういうの、ただの夢ですけどね()
 
実は自分らしさとか自分だけの魅力とかって、強調すると、失敗することが多いんですよ。
だから、テレビとか雑誌で「自分らしい生き方」とかいってのを見聞きして、「よし自分もやってみよう」とか、思わないほうがいいです。
そもそも、自分で自分の自分らしいところなんか、たいていわからないものです。だから大体それを探しているうちにいたずらに時間が過ぎてしまうことになります。
では、自分で自分の自分らしいところを知っていたらいいのでしょうか。
それがそうでもないんですね。たまに自分らしさをよく知っている人が、それを強調するような行為をしていると、案外まわりに喜ばれなかったりします。
なぜなら、自分というのは自分であるというだけで、もう十分に自分らしいからです。だから、自分らしさを強調すると、やたらくどくなってしまって、結局不快な感じを周りに抱かせることになってしまうのです。
 
わたくしはもう長いこと書道を習っていますが、十年ほど前に師範をもらったときに、自分の先生から、「もっと素直な字を書くように努力しなさい。あなたのあこがれている方向はわかるけれど、まずはもっと基本的なスタイルを完全に身につけるようにしなさい。」という教えを受けました。
そのときのわたくしは、いつまでも基本的なことばかりしてないで、そろそろ自分らしさを出していかなくてはならないと考え始めていましたので、先生のこの言葉はとても意外でした。はっきりいって、意味がわかりませんでした。
近頃になって、ようやくそれがわかってきました。
書道では「臨書」というお稽古をします。古典作品をお手本に、その作品のとおりに、その作品の意図をよく汲み取って書くのです。
基本的な点画の描き方、筆の運び方、表現方法まで、徹底的にコピーするように、その作品を何度も何度も練習します。
自分が表現したい方法は、この際無視します。
徹底的に古典作品を、そのとおりに書くのです。
自分の表現、自分のくせを徹底的に排除して、古筆をそのまま書くのです。
不思議なことに、名筆といわれる美しい作品をそのままコピーするように練習しつづけて残るのは、鍛えられた筆遣いと、自分の個性なのです。
自分らしさなど入る余地のない練習を続けることで、自分の個性が残るというのは、不思議なことかもしれません。しかし、それは本当です。
書道だけではありません。歌でも踊りでも、古くからの歴史を持つものは、「自分らしさ」など要求されません。徹底的に古典のスタイルを叩き込まれるだけです。にもかかわらず、その人らしさが必ず出てきます。息の長い、優れた表現者ほど、基礎を積み上げ、たたき上げ、その結果、「自分らしさ」が後からついてくるのです。
逆に、最初から「自分らしさ」を求めてしまうと、単に自分を他者から切り離し、個別化するという作業しかないわけです。
他者との共感がないまま、自分だけが他から切り離されていくことになります。これがいわゆる「独りよがり」の状態です。
つまり、仕事でも何でもそうなのですが、基本的に重視すべきことを重視するということ、自分が集中しなければならないことに集中するということ、そういうことをきちんと踏まえている人は、必ずその仕事にかかわる他者との共感を得ます。そして、その他者や、仕事そのものと一つになれます。そのうえで、個別の見方や動きが出ます。そしてその結果、自然にそれぞれの得意分野に仕事が割り振られます。
ですから、「自分」というものを際立たせることを全員がやめてしまったら、きっとその集団は、より個性豊かな面々が集まる素晴らしい集団になるのだろうなと、思うのです。
逆に、最初から「わたしはこれができます」と、自分を主張する人ばかりだったら、その集団の仕事が単なる分業になるだけですし、個人の力を超えることは不可能です。その人が自分で作った枠でしか、仕事ができないからなのです。
 
結局は「自分らしさ」を出すためには、まず「自分らしさ」を忘れるということです。その上で、最も基本的なことについてひたすら頑張ってみる。その間、自分らしいことをしたいと思ったらそれを押し殺して、ただひたすらがんばってみる。最後に振り返ったら、そこには自分にしか作ることのできない美しい城が出来上がっているということです。
そんなわけで、獅子宮で起こる今回の新月
自分らしさを追求するために、まずはきちんと仕事、きちんと家事、きちんと恋愛、なんていうのはどうでしょうか。
案外、身近な誰かがあなたより先に「あなたらしさ」に気づいてくれるかもしれません。