2010年5月 満月

* 満月情報
5月28午前8時8分、射手座6度33分の満月です。
いつもこれを書くときは、満月だったり新月だったりの日時のホロスコープを出して、それを見ながら書いております。
この日は双子座太陽と山羊座冥王星が150度、乙女座土星水瓶座海王星が150度という、今一つ居心地のよくない角度が目立ちます。
別に悪いことが起こるというのではありません。ただ、座りにくい椅子とか、使い勝手の悪い携帯とか、目上の人と行くコンサートだとか、そんな感じです。
それが悪いわけでもなんでもなく、他の人ならそれをうまくこなせるし、自分だって状況が違ったらとても快適なのだけれど、どうもこの場合はちょこっと緊張というか、摩擦というか、我慢というか、スカッと嵌らない居心地の悪さがあるような気がします。
もちろん満月ですから太陽と月は180度で、スカッとしています。また乙女座土星魚座天王星木星と180度です。天王星木星は大変近い場所にいて、しかもこの日の満月後3時間弱で、天王星牡羊座に移ります。
この満月と天王星の星座移動で、何か一つのことが完成、完結しようとしています。
そしてこのあたりの星の動き方は、この完成の瞬間、安心して見ていられなくって、胃がぎゅっと縮む思いをしながら心配げに見つめているという感じです。しかも、ただ見ているだけでなく、最後まで、座布団を動かしたり、スイッチやボリュームに手をかけていたり、息を吹きかけて温度や位置を微調整したりというような、ものすごくアナログな細やかな世話を焼き続けなければならないような、そんな感じなのです。
さて、こうして得られる完成が何なのかは、もちろん人によって違います。たぶんここまでお読みになればたいていの方が、「ああ、あのことね。」とご自分の何かを思い浮かべられることと思います。そういった何らかの完成を、どうも、最後まで気の抜けない厳しい状況のまま迎えるという、そんなイメージなのです。
そしてこの状況がすっかり終わったら、次の新月には驚くほどの大きな「始まり」が用意されます。
それまでは、毎日を楽しみながら、丁寧に生活したいものですね。
 
* 運命は変えられるか
昔、「アラビアのロレンス」という映画がありました。
ピーター・オトゥール主演の、スケールの大きな映画です。その映画の中でオトゥール扮するロレンスが「運命は自分で作るものだ。」と言う場面があります。わたくしはテレビでしか見たことがなく、吹き替えでしたので、原語ではどのように言っているのかわかりません。
砂漠の中で迷った人を助けるために単身探しに行くロレンスに、地元の人々が「運命だからあきらめなさい」と説得するのですが、ロレンスはかまわず行ってしまいます。そして、瀕死の状態ではありながらも、二人で戻ってきたのです。この台詞は、帰ってきたロレンスが地元の人々に向かって言ったものです。
わたくしはこの言葉が大好きで、中学だったか高校だったかの卒業アルバムに書きました。
今でもこの気持は変わらず、わたくしの座右の銘です。
占い師というと、人様の運命を読み、託宣を下すように思われがちです。また、ヒーリングなどスピリチュアルなことをしている人の中には、人生は生まれる前から何から何まで決められているとおっしゃる方もいらっしゃいます。
ですから、「運命は自分で作るものだ」というような言葉を座右の銘にしているというと、どちらかといえば占い師というより、カウンセラーのような発言かもしれません。
実際、占いを信じないという方のなかには、「生まれた日によって運命が決まるなんておかしい。」とおっしゃる方がいらっしゃいます。
わたくしもそう思います。運命が生まれた日によって決まるなんて、やっぱり違うと思うのです。ですから「運命は自分で作るものだ」というのは、占い師的な言い方ではないのかもしれません。
あるいはわたくしが占い師的ではないのかも知れませんが。
とはいえ、来てくださったお客様のホロスコープを書いて、その方のお話を伺っていると、確かに運命というものが存在するのではないかと思ってしまいます。
お話の内容とホロスコープに顕われることが、見事に一致しているということが大変多いからです。
占いのための出生ホロスコープは、生まれた瞬間の星の位置を図に書き込んで作ります。
その図とお話の内容が一致するということは、やはり運命は生まれた瞬間に決まるものであって、自分で作っていくものではないということになるのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
出生ホロスコープは、いわば人生の地図です。
実際の人生は、それを頼りにするかしないかは別として、自分で作り上げていきます。
例をあげます。
京阪神の地図をもった人が「自分は今JR 大阪駅 前にいて、JR 尼崎駅 に行きたい。」という「意志」を持っていたとします。
この場合、JR 尼崎駅 まで一番近いのは、JR神戸線に乗ることです。尼崎駅まですぐです。
しかし、他の交通経路を使うこともできます。
例えば、梅田で映画を一本見てから、JR 北新地駅 から東西線 で尼崎駅 に向かおうと考える人。
阪神で尼崎に向かい、阪神尼崎駅前で少し買い物をしてから、バスでJR 尼崎駅 に向かおうとする人。
このように、同じ地図を持っていて、行き先も同じでも、交通機関や、その途中どこで何をするかは、自分で決めることができます。
自動車の運転をする方なら、もっと顕著ですね。どの道をどのように進むのか、本当に人によって様々です。
そして、通った経路上で何が起こるかは、これもまた人それぞれです。
「あの日あの時に、あの道であの看板を見たから、わたくしは今ここにいる。」
なんていうこともよくあることです。
でも、その看板だって、見落としていたら関係ありません。
運命というのは、確かにあります。
それは、そんなにたいそうなものではなく、既にわたくしたちの周りにある「普通のこと」だと思います。毎日の生活の中で、まるで背景のような場所であったり、早く終わらせてしまいたい雑務であったり、
BGMにすらならない雑音であったり、運命はそんな形をしてわたくしたちの周りに広がっています。
そのどれに着目するか、何を取り上げるかで、わたくしたちの生活や生き方が、しばしば大きな変化を遂げます。
そうすると、どれを取り上げたら大きく変化するのかという問題が浮上するかもしれません。
しかし、ここが運命の不思議なもので、その時点で一番よいものを取り上げようというアンテナは個々人がきちんと持っているものです。
にもかかわらず、失敗したと感じることが起こります。
それは何故かというと、それが実は失敗ではなく自分を鍛える上での人生のトレーニングとして、その時点でもっとも必要なことだったからです。
では、失敗は絶対にないのかというと、そうでもありません。失敗する場合も無きにしも非ずです。
めったにないことですが、「我欲」に振り回されて動いたときは失敗することもあるようです。
しかし我欲といっても、それが「人様の役に立ちたい」という形をとって現われるかもしれません。そんなときは、「あの人は自分を犠牲にしてまで頑張っている。すごい。」という評価を得たりしますが、本来の姿ではないので、自分では何かが違うと疑問に感じてしまったりします。
また、見た目には「成功」に見える失敗もあります。
素晴らしい仕事をして、高い収入を得、家族にも恵まれているのにもかかわらず、何かが不満で苛々していたりするとしたら、確かにどこかが間違っているのでしょう。
しかしこれらも、こういったことを経験することで本当の目的、本当の成功はこうなのだと気づいたとしたら、その時点で一つのトレーニングとして成立します。また、「ひょっとして、これは間違っているのではないか」と思ったとしても、視点を変えるだけで、実はとても自分の在り方に適っているのだとわかることもあるので、やはり失敗とも言い切れません。
つまり、人生には、あらかじめ決められた運命もなければ、選択の間違いで失敗背手しまうということもないのです。
では、悲惨な事故に巻き込まれたり、深刻な病魔に冒されたりというのは何故かということになります。
これこそが、もっとも根本的な部分での本人の選択なのです。
その人には、というより、その人の魂には、そのような厳しい状況にさらされることで、学ぶべきことがあったのです。
人は、魂というものをもっています。「いのち」と言いかえてもいいかと思います。
その「いのち」がそれを選択し、その「いのち」の宿る肉体に、それを選ばせたのです。
それほど過酷な生き様を選ぶほどに、その「いのち」は人生での厳しさと、そういう厳しさの中でしか得ることのできない尊厳を得ようとするのです。
言い方を変えれば、それだけ強く尊い魂の持ち主であるということなのです。
ホロスコープは人生の地図であると書きました。
この人生の地図は、「たまたま」与えられるものではありません。
生まれてくるときに、自分で持ってくるのです。
生まれてくる赤ちゃんに宿る「いのち」が、自分の地図をあらかじめ用意して、その地図に適った日時と環境の下にこの世に生を受けるように決めてから生まれるのです。
今、過酷な現状に置かれているという方は、それだけ厳しい状況を乗り越えられる能力をお持ちだということかもしれません。
ほんの少し視点を変えたり、いつも歩く道を一本だけ北や南にずらすだけでも、解決の糸口がつかめるかもしれません。
あるいは、この状況そのものが、大きな成功につながる一番の近道かもしれませんから、あだや疎かにできないとも言えます。
どうか、厳しい状況にある方々はそれが与えられた運命だとあきらめずに、「自分が選んで自分で変えていくことができる運命の途上だ」と思っていただければいいなと思います。
また、今こそ自分の思ったとおりの生き方をしているという方は、わたくしの文章は実に小ネタ程度に読んでいただいて、ご自分の人生を謳歌していただきたいと思います。