2010年7月新月

* 新月情報
7月12日午前4時42分蟹座19度24分の新月日蝕のおまけ付きです。
今回の日蝕は日本からは見えないようですね。
わたくしはどうも、観測とか観察とかいうのになると弱いので、そちらにご興味のある方は、国立天文台などのサイトを見ていただくのがよいかと思います。
この日、冥王星木星の90度、同じく冥王星と水星の150度、さらにこの水星と木星の120度と、とても意味ありげな三角形ができあがります。
しかも金星が、この冥王星に今しも120度という角度を作りにいこうとしています。
冥王星山羊座、水星は獅子座、木星牡羊座、金星は乙女座です。
人知れず積み上げてきた努力、真面目に続けてきた仕事が、広く周りの人に知れ渡ったり、逆に今まで求めていた貴重な情報にめぐり合って、さらに多くの実りを得るような、そんな感じの星回りです。
ここで物事が動くとき、思わぬストレスを伴うことも予想されます。
「これは秘密にしておきたかったのに」とか、「この情報って信用できるの?」とか、そんな具合です。
少々のストレスは、気にしないでいきましょう。
このあたりで「小さなことは気にしない」という力をつけておけば、7月下旬から8月にかけて起こるいかなることにも、それほど驚かずにいられると思います。
例えば、長くお付き合いしていた人がいるとします。まだみんなには秘密にしていたかったのですが、ひょんなことからお友達に知れてしまいます。あわてていると、お相手が、「そろそろ一緒に住んでもいいかと思っていたし、丁度いいかもしれない。」なんて言い出すとか、そういうことです。
あるいは、こっそり書き溜めていた小説が知り合いに見つかってしまい、「内緒にしてね。」とお願いしたら、「出版社に知り合いがいるけど、読んでもらう?」なんてことになったり、そういうのもありです。
しかし、やはりここでは「人知れず努力してきた」「こつこつ実力を伸ばしてきた」ということがポイントになります。
山羊座冥王星と、乙女座の最後のほうに位置している土星が、頑張り屋さんを応援しています。
新月の願い事をする方は、そういったこつこつ型の願い事をかけてみましょう。また、蟹座で起こる新月ですから、蟹座の象徴する家族や家庭、お母様のことを念頭においてかける願い事は、他のものよりうんとかないやすくなります。
ぜひ、新月の時刻を過ぎたら紙に願い事を書き出してみましょう。
 
* 神仏を拝む……鬼子母神
今回の新月は蟹座で起こります。
西洋占星術で蟹座が象徴するのは、「家庭、家族、母、母性愛」などです。
だからといって、蟹座生まれの人がみんな女の人で、子どもがたくさんいて、というわけではありません。念のため。
さて「母性」というと、大変に尊い、素晴らしいものであるとわたくしたちは思います。
しかし、C.G.ユングの説にあるように、母性の象徴である「グレートマザー」は、愛にあふれた面を持ちながら、同時に何もかもを飲み込んでしまうような強い束縛や独占欲を表す一面をも持ちます。
わたくしは自分で子どもを生んだ経験もありませんし、「子育て」をした経験もありません。仕事で知り合い、付き合ってきた子どもたちはみな「人様のお子」で、わたくしはあくまでお預かりしている立場です。
この文章をお読みの方の中には、子育て真っ最中という方も、それを夢見て婚活中という方も、子どもは要らないという方も、いろんな方がいらっしゃると思います。
しかし、母性愛、母なるものの心というのは、ご自身が「子ども」というものとどのような関係にあっても、何か「子ども的なもの」とのつながりにおいて出てくるものであると思います。
「生み、育てる」のは、何も子どもだけではありません。
芸術作品、趣味や仕事、そのための人材や場所など、わたくしたちは日々の生活においてさまざまなものを「生み、育てて」います。そしていつかそれらは巣立ってゆき、わたくしたちの手元から離れてゆくのです。
そういったものとどうかかわるかということを考えると、自分たちがそれらの「母」であるということを感じずにはいられませんし、そこには、うつくしいだけではない、母性愛の苦しい一面「母としてのエゴ」も存在します。多くのお母さん方が、子育ての中でご自分の「エゴ」を克服しようと努力されている姿を、わたくしも日々見ています。
そしてその苦しい一面を卒業できたら、本当の意味で子どもたちに愛情を持って、一所懸命育てて世に送り出すことができるのではないかと思うのです。
それは、芸術作品や仕事においても同じことだと思います。
実は今日書こうと思っている鬼子母神は、もともと、その母性のエゴのゆえに人間の子どもを殺して食べていた「鬼」でした。しかし、お釈迦様の教えを受けて改心した末、子どもたちの守護神となり、さらに、子育て、安産の神様として人々の信仰を集めるようになったのです。
では、人間の子どもを殺して食べていた鬼が、どうやって改心し、人々の信仰を集める神様となったのでしょうか。
鬼子母神のこのお話は有名ですので、ご存知の方も多いと思います。しかし最近は、意外に昔のお話を聞いたことがないという若い方もいらっしゃるようですので、まずこのお話から書かせていただきます。
 
鬼子母神はもともとインドの女神で、「ハーリーティー」といいます。その名前は中国で漢字に写され「訶利帝(かりてい)」と呼ばれるようになりました。
訶利帝は、鬼神と鬼女の間に生まれました。そして同じく鬼神である般闍迦(はんじゃか、インド名はパーンチカ)に嫁ぎました。
訶利帝は般闍迦との間に500人もの子どもをもうけました。
そして訶利帝は母親として、500人の子どもをとてもよく可愛がりました。特に末っ子の嬪伽羅(ひんぎゃら、インド名はプリヤンカラ)は、目に入れても痛くないほどの可愛がりようだったといいます。
訶利帝と、夫の般闍迦は、夜な夜な王舎城内の子どもをさらって食べ、子どもたちにも食べさせていました。
このころ王舎城は、ビンビサーラ王という王様が統治していました。
夜な夜な出没する鬼に子どもたちをさらわれ、ここに住む人々は生きた心地がしなかったでしょう。
統治していたビンビサーラ王も困り果てて、釈尊に相談に行きました。
ビンビサーラ王はかねてから釈尊と親交があり、出家した釈尊に帰依していましたので、いつも困ったことがあれば相談していたのです。
釈尊は、「じゃ、ちょっとやってみよっか。」という具合に、この問題の解決を引き受けてくれました。
釈尊がどうしたかというと、訶利帝の外出中に、500番目の子ども、末っ子の嬪伽羅を、神通力で隠してしまったのです。
帰ってきた訶利帝は、嬪伽羅がいないことに気づきます。
半狂乱で探し回り、ついには釈尊の元にやってきます。
「お釈迦様!うちの子がいないのです。大事な大事な嬪伽羅がいないのです!助けてください!」
釈尊は必死ですがる訶利帝に言います。
「訶利帝よ、お前には500人も子どもがいるのだから、そのうちの一人くらいいなくなったからといって、べつにいいではないか。」
「お釈迦様!500人いても1000人いても、子どもは一人ひとりみんな可愛いのです!ましてや嬪伽羅は末っ子です!心配して当たり前です!!」
それを聞いた釈尊は、訶利帝を叱ります。
「訶利帝よ、お前には500人もの子どもがいて、そのうちのたった一人を失ってさえそんなに悲しいのだろう? 人間には1人か2人、多くても5人くらいしか子どもがいないのだよ。その子どもを奪われて食べられる、その人間の気持をお前はわからないのかい?」
それをきいて、訶利帝は目が覚めます。
「ああ、わたしは何という事をしてきたのだろう。お釈迦様、わたくしはこれからは決して人間の子どもをとって食べたりいたしません。」
お釈迦様は訶利帝のその言葉を聞いて、嬪伽羅をつれてきました。
しかし、嬪伽羅は、母のもとへ帰ろうとしません。
釈尊の元にいる間に、母のこれまでの行いを大変悲しく思うようになっていましたし、「これからは決してしない」というだけでは、母の罪は許されないことも知っていました。
訶利帝はそれを悟り、こういいました。
「これからは人間の子どもたちを守護する善神になろうと思います。子どもたちを守ることで、これまでの罪滅ぼしをさせてください。」
嬪伽羅は母のこの言葉を聞いて、やっと母の胸に飛び込みました。
こうして、恐ろしい食人鬼であった訶利帝は、子どもたちの守護神、鬼子母神となったのです。
 
それにしても、すさまじい話です。日々人の子どもをとって食べながら、自分の子どもはたった一人でもいなくなると必死に探して仏様にすがる。その姿は恐ろしいエゴイスト以外の何者でもありません。
しかし考えてみれば、わたくしたちは毎日の生活の中で、程度こそ違え、似たようなことをしているかもしれません。
なぜなら、「生きる」ということは、多かれ少なかれ、他者の犠牲を伴っているのです。
少なくとも、動植物を食べて生きているのですから、「生きる」ということは他の生物を「殺す」ことでもあるのです。
訶利帝は「鬼」でした。鬼として生きている限りは、「人を食う」ということは生きるためにどうしても必要なことでした。
そして、自分の子どもを育てるために、人の子をとって、自分の子に食べさせなければならなかったのです。鬼であり、母であるというのは、そういうことなのです。
しかし訶利帝は母である自分の気持を、同じ立場の「人」の気持に重ねることができました。
結果、自分自身が母であることの意味を問い直し、鬼であることをやめ、神となる決意をしたのです。
母のままでありながら神であろうとした訶利帝は、鬼子母神として生まれ変わり、この世の子どもたちすべての守り神となったのです。
今では、多くの人が、安産や子育ての神様として彼女を拝みに行きます。
 
鬼子母神のようなすさまじさはなくとも、わたくしたちは、自分を、自分の家族を守るために、場合によっては人様を犠牲にすることもあるかもしれません。
しかしそのときに、もう一度自分自身のあり方を問い直す力を持ちたいと思うのです。
「わたくしがしているこのことで、同じ立場の別の人を悲しみに追いやってはいないか。自分はそれでもいいのか。」
それで、簡単に解決することばかりではありません。
むしろ、そう考え、問いかけることで、よりいっそう自分自身の迷いが出てくることも多いと思うのです。それでも、問い直さなければならないと、わたくしは考えます。
問い直すことで、自分の中の鬼(エゴ)に「あなたの思うままにはさせないよ」と釘を刺すことができるのではないかと思うからです。
少しずつ、たぶん、本当に少しずつですが、自分の中の「鬼」を殺して、いつかはきちんとした「人」になりたい、そんなふうに思いながら、鬼子母神に思いをはせるのです。
 
参考:「現代版 福の神入門」 ひろさちや著 集英社文庫